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漫画家志望から起業へ(前編)

漫画家を本気で目指していた自分が、今は、医療VRベンチャーの役員をしています。しかし、自分の中では、変わらないものがあります。「 #あなたが変身した話 」というテーマがありました。自分の仕事の変遷を振り返りつつ、「好きなことを仕事にする」ということについて、考えてみたいと思います。

1:漫画家志望

小学生の頃から漫画家になりたくて、中学生の頃に小学館の少年サンデー編集部に、原稿の持ち込みをしました。放課後に学生服を来たまま、神保町の駅から向かいました。薄暗くなっていたように思います。見上げた小学館のビルはとても大きく、怖かったことを覚えています。雑然とした編集部の端にある対応スペースで、原稿を読んでもらいました。目の前に大人の本物の漫画の編集者がいる。自分の原稿を読んでくれている。この世界に入っていこうとしているんだ僕は。そんな風に思ったことだけは、今でも覚えています。

高校は、幕張につくられた公立の実験校に進みました。幕張東、西、北という3つの学校が広大な敷地に並立し、それぞれが独立したグランドと校舎を持ちつつ、共用部を持ち、授業によっては学校間で生徒が移動するという独特の制度がありました。また、文系理系以外に芸術系というコースがあり、僕は美術専攻のクラスに進みました。高校生活はデッサンとデザインに明け暮れ、マンガの持ち込みを続けていました。またアシスタントの経験をさせてもらう機会があり、校則でバイトが禁止だったために、校長先生に掛け合い正式に許可を得ました。

高校時代は、男女同権ではないこと、18才で選挙権がないこと、受験システムへの嫌悪など社会正義に溢れていました。その勢いもあり、大学受験というシステムに乗ること自体を拒絶しました。その後、学ぶこと自体は好きだったので、やはり実験的に始まった放送大学に入学し、生物や心理学など、興味ある分野を楽しんで学びみました。

20才で実家を出て、アルバイトをしながら、安アパートを借りて、一人暮らしをしました。アルバイトは、漫画家のアシスタントのほか、血液検査研究所の検体の仕分けや、コンサルティング会社でのMacを使ったグラフ作成やプレゼン資料作りなどをしていました。知らない世界や新しいテクノロジーに興味があったことと、それなりに稼げたことが理由でした。短時間で稼いで、安価だった放送大学の学費と、アパートの家賃などの生活費を工面したあとは、ただただ漫画を描いていました。このころ、草の根ネットというものに触れる機会もありました。

小学館ビッグコミックスピリッツ編集部で担当編集者がつき、デビューを目指していました。しかし、構図のセンスなど画力の部分がどうしても問題、と告げられました。デビューは難しいかもしれない、と。

2:ライター

編集者からは、文章で書くプロットまでは面白いので、コマ割りして作画するのではなく、そのまま文章で勝負したらどうか、と言われました。小学生の頃からずっと突き進んで来た漫画家への道への挫折でもありました。何かを自分で作り出し、それをもって社会と関係性をつくること以外を考えたことがありませんでした。どこかに就職する、という形が頭にはありませんでした。

目の前にあるものは、その「文章で書くプロットまでは面白い」というアドバイスだけでした。とはいえ、文章そのものを最終的なアウトプットとして捉えたことはありませんでした。小説家というのは、もっと、こう、本を読むのが好きで、文章を書くことが好きな人がやるものだと思っていました。自分の書いたプロットのための文などが通用するはずがない。そう思いました。が、楽天的というか、世の中を知らないというか、文学に親しんで来なかったことが幸いしたのか。通用するかどうかやってみなければわからないし、何も文学者になるわけでもなし、自分なりにやれるところでやってみよう。とりあえず、やってみよう。そう思うことができました。そう思うより他なかったのかもしれません。

漫画を書いていた頃から、SFやファンタジーなどの空想と日常が混在する世界が好きでした。そういう意味では、僕が想い描く世界は、漫画を描いていた頃と変わらない世界です。そういった世界を描ける文章の領域として、ゲーム業界がありました。当時、攻略本はまだ単純にクリアするためのノウハウをまとめたものでした。そこで、世界観を読み物として提供するスタイルを提案しました。運良く、そうした内容に賛同してくれる編集部と編集プロダクションの人と出会うことができ、ファミ通を中心に、40冊以上(累計130万部以上)を出すことができました。ゼルダの伝説、ピクミン、マリオ、ファイナルファンタジー、パンツァードラグーン、ペルソナ、クーロンズゲートなど、世界観解説、登場人物紹介、ノベライズなど、物語的側面の解説や解析を中心に、当時としては、かなり実験的な取り組みをさせてもらいました。

この頃、能楽(を普及するNPO活動)や茶道など、時代を超えて長く続くエンターテインメントに興味があり、挑戦しました。

ライターになったことを受け入れられたのは、「自分が頭に想い描いた世界を表現するのは、絵に限らなくてもいい」と整理したことでした。漫画家という職業というか創作の形にこだわらず、「想像をアウトプットする」ということが好きなことなんだと、自分なりに整理できたことでした。

3:プロデューサー

1999年。オールアバウトというネットメディア立ち上げの話があり、ゲームに関する情報をとりまとめ書き手をたばねるプロデューサーの依頼がありました。ゲーム攻略本時代に一緒に仕事をさせてもらい、オリジナルの小説を一緒につくってくれた編集者からの紹介でした。インターネットは黎明期から遊んでいて、次のメディアとしての可能性を感じていたので、関わることにしました。その後、グルメの領域もプロデュースすることになりました。

初めて、自分でコンテンツをつくるのではない、誰かにつくってもらう、という仕事をしました。それまで、編集者がやってくれていた仕事を、見様見真似で、やってみました。創成期のベンチャー組織に直接的に関わったのも、これが初めてでした。IPOするまでご一緒させていただいたのですが、そういった動きを間近に見たのも初めてでした。

自分でコンテンツをつくる以外の仕事を体験し、他の企業との連携をしていく経験は、仕事に対する視野を大きく広げてくれました。一方で、自分で書くのではない、ということが、自分と仕事との間に距離感をつくっていました。私生活でもいろいろなことがあり、熱意を持って自分の生き方を考えるのではなく、状況に流されるような、そんな時間が長くありました。

改めて振り返ってみると、「想像をアウトプットする」というコンテンツをつくることから離れたことで、自分なりの好きを見失っていた時期のように思えます。

そして、さらなる転機がありました。(後編につづく)


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