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2020開会式を観て「本気でtogetherって思ってるのかな」と感じた話

筆者は、ほとんど運動をしない。
若い頃からゴルフをやらないことをたしなめられ続けて、しかし頑なにクラブを握らないこと20数年、ボールもクラブもラケットも握らなければ、トレーニングウェアにも袖を通さない。

これだけ運動から縁遠い筆者は、一方で、オリンピックだワールドカップだという節目の大会には、大いに参加する。
ミーハー根性丸出しで、出身国、すなわち日本のチームを応援するのだ。

少し理屈っぽくいうと、この種のイベントは、競技をする選手と、彼女ら彼らを応援するマスが一体となって作り上げるものだし、それが国の求心力にエネルギーを与えてくれるとも思うし、さらにはそこに組み込まれている国家間の競争と最終的な融和という構造が、国と国の間にある心理的な壁を壊し、世界レベルのDiversity&Inclusionを押しすすてめてくれるとも思う。これが筆者のような運動音痴をして、スポーツの国際大会に、観戦などの形で間接参加せしめるエンジンなのだ、と考えていた。

なので、今回の五輪のテーマにtogetherが付記されたことは、大いなる共感と賛同の思いを抱いていた。

が、7月23日に行われた2020東京五輪開会式の、バッハさんと橋本聖子さんのスピーチを聞いて「オリンピックを創る側は本気でtogetherって言ってるのかな?」と疑問に思った。「アスリートの苦悩」「アスリートの忍耐」のようなことが非常に強調されていたからだ。メモをとっていないので、具体的な文言の検証なく、印象で語ることを許していただければ、特に橋本さんの方はそういう傾向が強かったように思われる。

もしも大会運営側の意識に、オリンピックはアスリートのものである、という考え方があるのであれば、マス側の行いは「参加している」というより単に「観ている」という意味あいが強くなる。かくして上記の私の考えは非アスリートの独りよがり、ということに。

もっと言えば意識的か無意識かはさておき、「アスリート」という言葉を強調しすぎると、人をアスリートと非アスリートに二分する見方の元となるんじゃないか、とちょっと気になる。
会社の部門の壁も、国境も、人の集団の中に築かれた壁は、いつしか同胞意識と敵対意識を醸成する触媒になり得るわけで、アスリートと非アスリートの間におかしな選民意識や被害者意識や対抗意識が出てきたら、何のための平和の祭典だかわからない。

アスリート、というのは、実際にスポーツするかどうかではなく、マインドセットを指す概念である、というのであれば、全人類アスリートである、という考え方が成り立つので、上の記述は筆者の誤謬であることになる。しかし、スピーカーの口ぶりからはそのような思想は感じられず、違和感は拭いされなかった。どなたかお詳しい方にお教えいただきたいところ。

ちょっと話が横道に逸れる。
開幕式の中に、アジア、オセアニア、アメリカなど、世界の各リージョンの代表がジョンレノンのイマジンを歌い継ぐ場面があった。無邪気に見ると美しいシーンではあるが、上記のような見方に立つと、リージョンという壁を強調することにより、やはり不必要な同胞・敵対意識を作ることになりはしないか、と少しハラハラする。大会の中で国家が強調されるのは、国単位の競争という大会の根幹に関わっていることなので、やむを得ないが、それ以外の壁を作る必要はないと思う。

話を「アスリート」のためのオリンピック、という観点に戻す。
オリンピックの開会式とは何か、ということを厳密に考えてみると、それは会場で執り行われている儀式そのものである、と思う。
リアルコンテンツと配信向けコンテンツは分ける、という考え方も、もちろんある。
が、アスリートのための大会、とか、そこまで言わずともアスリートへのレスペクトを第一義に置く、というのであれば、中継を観ている人/観るという形で参加している人も、会場の観客席から見、感じているのと、同じことを経験できるべきだと感じる。
参加者としての筆者の個人としての感覚も、できるならリアル観客の視点で、同じ経験を追体験したかった。

しかし、筆者が見ていた東京大会の開会式は、随所に動画が挟んだ編集がなされ、現地で目にしているのと同じものが見られている感じがしなかった。
一連の動画などは、現場でもスクリーンに投影されているだろうが、TV向けに競技場と動画を同じ階層に並べた編集をするのと、会場でフィールドとスクリーンの間を変わるがわる見るのでは、文脈が全く異なるものになるのではないかと思う。そして、全体の構成における動画の位置付けを考えると(メッセージ性が高く重要だった)、昨日のコンテンツを現地で見たら、各パートのメッセージ性とそのインパクトが、ずいぶんチグハグだったのではないか、と考える。つまり開会式は中継用に作られていたのではないか、ということだ。

オリンピックはビジネスであり、そうであれば、マス向けの発信が大切であるのは勿論である。また、開催国、今回で言えば日本にとって開会式中継は国の絶好のマーケティング機会である、というのもうなづける。
しかし、オリンピックはアスリートの祭典で、開会式はその神聖なセレモニーである、というコンセプトに(もしかしたらこのコンセプトは筆者の思い違いかもしれないが)たつと、何か理念を曲げて商業主義に走っているような感じがして、いささか気持ち悪い。

かくしてtogetherとか、Diversity&Inclusionによる世界連帯の推進、みたいなことを大義にするのであれば、もう少しその辺りを突き詰めて考えればいいのに、あるいは、突き詰めて考えているなら、もっと説明すればいいのに、と感じた、4時間の長丁場だった。

最後に、これらを筆者の専門である、マーケティングや行動科学的にまとめてみると、

(1)今までのオリンピックのコンセプト「Faster, Higher, Stronger」にtogetherを追加したのは、スポーツやオリンピックが本来的にもつ力、すなわちゲームの上での競争・和解を通じた国際的な連帯強化と整合的であり、新型コロナ禍にある世界情勢とも親和的で、非常に良い

(2)しかし、この開会式のコンテンツは、そのコンセプトに則って創っておられるようには思えなかった。これにより、せっかく加えたtogetherがお題目的に見えるのみならず、コンセプトの、ひいてはオリンピック自体のブランドを毀損するリスクとなっている

(3)人をカテゴリーで括り、カテゴリー間に壁をつくれば、人は対立する。不必要なカテゴリーは作らないほうが良い

(4)リアル(競技場)とコピー(T V上のコンテンツ)の関係、現実(競技場)とメタ現実(競技場のスクリーン)の関係、そしてアスリート尊重原則(であるという仮定)を考えると、今回の開会式はメディア論的にはチグハグであった

という4点がポイントになろうかと思われる。

*もしこれらのマーケティング的な整理や、これ以上の具体的な考察にご興味を感じられたら、お気軽に筆者にDM送ってください。

・・・・まぁでも、競技が始まったら、筆者も含めて、こんな理屈はどうでもいいことではある。

がんばれ日本。
がんばれ地球。

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