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「一人称単数のデザイン」を考える

村上春樹の新作『一人称単数』という小説をまだ読んでいないです。だが、「一人称単数」の重要性をビジネスパーソンに散々と話しまくっているぼくとしては、このタイトルに惹かれます。


最近、インフォバーンが企画・主催するイノベーションを学ぶためのコミュニティ「Un-LEARN」で講師をやりました。ここでも参加者の皆さんが「一人称単数」でものを考えていただく課題を出しました。皆さんのアウトプットからぼく自身が学ぶことも多かったのですが、ここでは皆さんのアウトプットをどういう基準でぼくが判断したかをお話しましょう。

何をテーマとしたか?

このプログラムでぼくが担当したのは2週間で、1回目のおよそ3時間でレクチャーをします。まずソーシャルイノベーションが目指すものは何か?デザイン文化とは何か?意味のイノベーションとは何か?といったことを話しました。デザイン文化は前回の記事で書いた内容です。

これらを踏まえてラグジュアリー領域の時間的経過とラグジュアリーの意味の変容、現在問われているラグジュアリーの新しい意味について話しました。この部分は、以下の記事で書いたことです。

そして次回までの課題を出しました。下記です。4の部分が「一人称単数」に関わります。

(ラグジュアリーの)「従来の意味」と「新しい意味」を比較し、文章にはメタファーの変化も含め、新しい意味によって広がる世界を1000字以内の文章で記述する。
1, 日本に拠点におく実際にある企業を選ぶ。
2,    欧州を市場として想定する。
3,    分野は問わないが、物理的なモノを含む。
4,    主語を「私」とする。つまり「私が1の企業の経営者であれば」という  観点を起点とする
5,    自分自身の感想を250字以内の文章で表現する。
* メタファーについては『突破するデザイン』参照。
* ラグジュアリーのさらなる理解は『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』『21世紀のラグジュアリー論』を参考。

→ 上記を基に4人のグループをつくり、(自分たちで選んだ)雑誌の表紙を飾る内容を次回、各グループが発表。(どういうメディアに、どういう賞賛を受けるのが、新しいラグジュアリーの意味として望ましいのか?)

レクチャーの内容もかなり盛りだくさんであることに加え、たった3日間のうちに今まで考えたこともないラグジュアリーについて自分で考え作文を書き、それから次の3日間でグループ活動ですから、仕事をしている人たちにとってかなりハードな思考訓練だったと想像します。

アウトプットをどう読んだか?

参加者は40人以上だったのですが、提出された作文は30ちょっとでした。やはり時間的制約も多かったのだと思います。彼らが選択した企業名や商材を、ここでは書きませんが、意外な企業や商材を選んできていて面白かったです。

さてアウトプットをぼくがどういう基準で判断したか?です。

新しい意味のラグジュアリーについては、個人的な感性に反応することを出発点としているかどうかです。即ち、市場分析が最初にきて「論理的にこの領域を攻めるといいはず」と書き出す作文は、今回の狙いから外れます。大いにロマンティックであることを自ら楽しみ、生産性などは無視してこそ作り込みができるとさえ確信しているのを優先します(19世紀英国のウイリアム・モリスがそうであったように)。

ソーシャルイノベーションは、支配的なロジックにNOと申し立て、新たな文化を創造しようとの意図が窺えるか?です。小さなローカルであっても自分の生きる拠点を出発点とすることでオーナーシップがもて、他のローカルとの関係を活用し、新たな文化を広げていく意図があるかどうかです。この課題の場合なら繋がる相手は欧州です。

意味のイノベーションの面では、インサイドーアウトの原則からやはり個人の想いを起点とし、かつ考え方にギフト的な発想があるか(使う人が企画者の愛を感じ、なおかつ父親が子どもにもつような道徳的方向を示す態度があるか)です。これはベルガンティの『突破するデザイン』に説明があります。

上記3つのいずれの項目においても、一人称単数は重要な指標です。自分のよく知る場やことについては誰よりも良く知りセンシティブであり、それこそが自分の考えに確信がもてる対象になるのです。しかしながら、小さい範囲で自己満足せよと言っているのではなく、距離の離れた空間にもどう影響を及ぼすかを構想のなかに入れておかないといけません。また発想も1人から始まり、その次に批判的な対話ができるパートナーやグループの存在は視野に入れておきます。

異文化コンテクストの活用をどう考えるか?

発想の起点をローカルにおくわけですから、当然ながら、提案内容のローカル文化度は高くなる傾向になります。しかも、今回の課題は欧州をターゲット市場に入れるので、「欧州にはこのネタは少ないから、日本のこれは受けるだろう」「日本の伝統は欧州の文化に影響を与えるはず」という異文化差を有効利用とする発想をしがちです。

この何十年かの欧州のハイエンドブランド企業は、(アジアや中近東の)非欧州市場に対して非欧州人の欧州文化への憧れを有効利用してビジネス規模を拡大させました。これも異文化差の有効利用です。これをYESとするか、NOとするか、です。

ぼくの判断は完全なNOではないですが、基本NOです。一人称単数が発想起点にあって、その結果として生まれる異文化差利用はYESとします。しかし異文化利用を発想の最初にするなら、これは市場分析を最初にもってくるのと同じでNOです。一方、異文化差の問題が個人的な経験と同じレベルで動機となるならYESです。

また日本の文化商材も寿司をはじめ、世界に色々と普及をしてきました。そこには試行錯誤があり、いわゆる「ナンチャッテ寿司」が主流となりビジネスとしては日本資本とはまったく関係のないところで拡大し、逆にだからこそ「オーセンティックな寿司」を求める市場もできてきたとの流れがあります。こういう例は既に(即、見れるかたちになっているかどうかは別に)たくさんデータがあるので、ここから学んで自分の商材について戦略をたてるとの心構えは期待したいです。

求めるのは質を追いかける姿勢

このレクチャーと課題で求めたのは、量ではなく質をおいかけるための問いの立て方とはどういうものかを知ってもらうことです。ここだけで全てを自らのものにするのはとてもできないですが、どの程度のフィールドを視界に入れると「一人称単数」で質を追求するスタート地点に立てるか、との感触を持ってもらうことです

尚、トップの写真は意味のイノベーションの提唱者であるベルガンティが以下の記事のためにインタビューを東京で受けたとき、ぼくが見学しながら撮影したものです。今年の1月末です。これを読んでも、今、ラグジュアリーの意味が問われているのが分かるでしょう。


つまり、新しいファッションを手に入れたと同時に、インスタグラムでオープンにシェアし合うような時代に、高価なブランドのファストファションを所有する意味を見出すことが難しくなって来ているのです。そこで、所有の代わりに生れて来るのがシェアのコンセプトです。高価で手に入りにくいアトリエで制作された、素晴らしいファーストコレクションを人から人、世代から世代へと分かち合い、その価値をシェアして共有できる二次市場の商品は、「ものを捨てない」「ものを大切にする」という、いま盛んに問われている「サステイナビリティ」という観点から見ても、非常に理に叶っています。

一方、各メゾンブランドは、そうした市場の現状をまだまだ理解できていないようですが、これからのハイエンドブランドは、ゴッホやレンブラントの時代を超えた「アート作品」としてその意味をとらえられ、二次市場においてビジネスの活路を見出すようなマーケティングに移行していくと思っています。




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