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「君の目で見ればいいんだよ」

かつてボスから言われ、今も忘れられない言葉。それが今回のタイトルだ。

ぼくが日本の自動車会社のサラリーマンをやめ、イタリアのトリノで仕事をはじめたのは、新しいコンセプトをつくることに、あるいはその現場にいることに魅力を感じ、それを実践するには日本でも米国でもなく、ヨーロッパだと確信したからだった。

米国のカーメーカーと付き合い、大量につくり売るシステムに優れているのは分かった。だが、新しいコンセプトを生むのは俄然ヨーロッパが上手だ。英国のスポーツカーメーカーとの仕事でそう実感したのだった。歴史や文化の読み方や活用の仕方を習得しないで新しい考え方を生み出すのは難しいーーこう思った。

ぼくはヨーロッパで働く道を探りはじめた。自動車ビジネスを起点としながらも、自動車以外の領域のビジネスや社会活動にも範囲を広げたかった。

勤務していた自動車会社の役員にも相談にのってもらった。そうしたら「君のやりたいことは、トリノの宮川さんがやっている。彼の半生を書いた本を貸してあげるから読んでみたら」とアドバイスを受けた。その晩、ぼくは受け取った本を一気に読み終えた。

宮川さんとは宮川秀之さんのことだ。1960年にオートバイでイタリアにたどり着き、トリノのモーターショーにおいて、(1966年に日産自動車と合併する)プリンス自動車のクルマを展示していたブースで後に奥さんとなるイタリア人女性に一目ぼれ。それからずっとイタリアを拠点にビジネスをしてきた実業家である。

1960年代、日本のクルマは面白みのないカタチのデザインだった。独自のデザインには程遠い。一方、イタリアのカーデザインは1950年代に国際的名声を獲得していたのである。宮川さんはイタリアのデザイナーと手を組み、日本のカーメーカーにトップレベルのデザインを提供していったーー日本の自動車業界の発展を側面援助してきた功績で日本自動車殿堂入りもしている。

1960年代後半、世界でマエストロと呼ばれることになるカーデザイナー・ジュージャロとイタルデザインを設立し快進撃を重ねる。それだけでなく、数々の事業を手掛け、家庭ではホームメイドの4人に加え、韓国、インド、イタリアの3人の養子を育てていた。加えて困難にある人たちを手助けする活動もし、トスカーナで農園も経営している。

この人のもとでプランナーとして修業したい!と読後即、思った。メールもない時代、手書きの手紙をしたため投函したのは、それから1週間後だった。

上述の本を貸してくれた役員は宮川さんと仕事上の付き合いのある人だったので、手紙の中に役員の名前は書いてあった。それでもなかなか返事がない。

2か月ほど経過した頃か、ぼくは宮川さんの自宅についに電話する。だが、いつも本人は留守。毎回、違った子どもが電話に出て「お父さん、まだ帰っていません」。何度かの試みの後、やっと宮川さんの「手紙は読んでますよ、来月、東京に出かけるから、帝国ホテルで朝食をとりながら話しましょう」との答えをもらった。

そうして宮川さん夫婦と初めてお会いした時、二つのことを言われた。

ひとつめは「ある企業のなかで階段をのぼるようにポジションをあげていくのも良いだろう。しかし、自分で山をつくって登っていく方がもっと面白い人生になるよ」。

二つめは「イタリアは近代先進国の顔をしたジャングルだ。まず、どんなサイズか実際に見てみるといい」である。

およそ一か月後、ぼくはトリノの地を踏んだ。イタリアのサイズを実感するためだ。宮川さんは自分の子どもたちの教育のために小さな会社を作ったばかりだった。

学校教育が終わったら親の教育が終わったと思う人が多い。勘違いしてはいけない。社会人として育てるに親が背中で教えるべきことはたくさんある。このように一緒に社会活動をしている神父から言われたそうだ。

長男が会社に案内してくれた。彼は映画監督の黒澤明とフェリーニのそれぞれの映画で助監督を務め、この父親の作った会社でビデオを制作していた。ちょうど、F1のパイロットたちがアルプスでスキー大会をするのを撮影編集していたーー彼は今やF1の世界の顔だ。

オフィスの天井は高く、フレスコ画が描かれている。壁には現代的な複製画がかかり、明るい光が差し込む。こんなオフィスがあるのか、とぼくは心底驚いた。

それからトリノの中心にある自宅に伺い、宮川さんにオフィスの感想を伝えると、「あそこはものを考える空間なんだよ」と言われた。恥ずかしながら、オフィスにそのような役割を期待する発想が当時のぼくにはなかった。

昼食をご馳走になった。子どもたちもいるので10人近くが長い食卓を囲む。それこそ国際色豊かな顔が並ぶ。皆がそれぞれに考えを率直に述べ合い、笑い、衝突もする。何が開放的か、何が国際的か。迷うまでもなく、ぼくの生きる場を獲得するに全力を尽くそうと決意した日だった。

それから紆余曲折があり、およそ半年後に宮川さんから「最初はイタリア語もよくわからないヨチヨチ歩きだろうから、2年くらい、ウチのオフィスで面倒みてあげるよ」と言われたのだった。

それから数ヶ月後にぼくはサラリーマンをやめ、トリノに居を構えた。1990年のことだ。あの、ものを考える空間に宮川さんと彼の子どもたちの傍にデスクを用意してもらった。

そして初めての仕事らしい仕事が、当時、宮川さんが企画したプロジェクトだ。トリノの車体メーカーで作り始める一台1億円の数量限定のスーパーカーの生産管理と品質管理をぼくが担当する。

正確に言えば、生産管理と品質管理の末席を汚す程度だが、明らかに状況が把握しやすい生産進捗の管理ならいざ知らず、品質管理と聞いてぼくは後退りした。日本で海外カーメーカーへ量産供給する大型コンポーネントの営業担当だったぼくには、完成車、それも1億円もするクルマの品質をみるなど無理!と瞬間的に反応した。それは品質の専門家にしかできない仕事だろう、と。

そうしたら、至極当たり前のように宮川さんがタイトルの言葉を言ったのだ。

君の目で見ればいいんだよ

ぼくが大企業のサラリーマン思考から脱却するには、さまざま壁を超えないといけなかった。プロジェクトの企画メモをすぐ用意しようとする習慣も、宮川さんの「野武士にならないとね」との言葉で葬った。

「君の目で見ればいいんだよ」は、会社組織における細切れの専門という分業がいかに自分の目を狭めるかに気づかせてくれた。自分の目で見ないで、誰の目なら信用できるのか?ここから、ぼくは全体を掴むことに自信がもてるようになった。

もちろん、あのスーパーカープロジェクトにおいて品質の専門家はいた。ぼくもトリノの郊外の道をテストドライバーがもの凄い速度で走るクルマに同乗もした。それでも、自分の目で見る価値や意味が減じることはない。

宮川さんの言葉は今もあらゆる局面で頭をよぎる。

宮川さんの長男のマリオが投稿するインスタの写真にたまにお父さんが登場する。その度に、ぼくはご無沙汰している宮川さんに電話しなくてはと思う。

先々週、久しぶりに話した。「人生の師匠」として相変わらず宮川さんが息子に指針を与えている様子が分かるインスタの投稿を見たのだ。ぼくにとっても人生の師匠。

話しておかなくては、と電話をした。春、暖かくなったら、宮川さんがトスカーナで経営しているワイナリーにでかけ、葡萄園を眺めながら雑談したいと伝えた。

師と呼べる人ー心に残る言葉を伝えてくれそうな人ーを見出すのを30歳くらいまでの目標とするのが良いと思う。

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冒頭の写真はLancia Florida Pinin Farina (1955)。昨年、ミラノのADI(イタリア工業デザイン協会)の博物館でこのクルマを眺めながら、1960年、宮川さんがイタリアのクルマのデザインに魅了されたのは当然だなあと思った。

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