うっかり老害になるところだった話。

コロナ禍を含んだ子どもの小学校生活6年間、ザ・運動会弁当をつくったのは結局1回だった。
(ん?2回か?というレベルの記憶)

今年の帰宅は給食を食べて早めの午後。リレーもない。色別の対抗戦の逆転ドラマもない。他の学年も見れないので、きょうだいがいない限り、低学年の子のきゃわゆいダンシング玉入れや、高学年の子の迫力ある走りも見れない。

つい私「なーんかさみしいよね。皆で集まってお弁当食べて応援してさー。こういう思い出って一生残るから案外大事だよねえ。残念」とつぶやいてしまった。

いや、本当にそうなのか?
よーーーーーく思い出してみよう。
1年に1度の弁当のために重箱を買い、手間がかからず映える(姑息)レシピを検索しまくり、手ごろな値段のシャインマスカット(隙間を埋めるのに大事)を探しまわり、そして当日は5時起き(手際が悪いため)。
なのにまさかの雨で気絶しそうになったり(唐揚げ4人分の肉の行方よ)、さて作ったはいいが大して家族は食べず、不憫に思った友達のお父さんが食べてくれた始末だったではないか。
疲れてくると他の学年やPTAの競技は無になるか、スマホタイムだったではないか。娘はまだおむつでぐずりだすし、大変だったではないか。
勝手に過去を美化し、都合の悪いことは忘却している。
え、これこそ自分、老害の始まりじゃないの

と我ながらゾッとしてしまった。

このニュースも、何かの間違いか誤解であると信じたいのだけど。

心から教育を憂いているのかもしれない。でも深層を深堀りすれば、自分が体験したものが変わっていくことへの反感では?と邪推してしまう。
小学生2人育ててみて、学校とは驚くほど昭和と変わらず、いわゆる既存の学校の仕組みというのはもう、子どもも先生も限界なんだなと感じる機会が多いです…。(だから新・運動会で救われてる人沢山いる)

声の大きさに騙されてはいけない。
年を重ねると、大きな声の出し方の小賢しい
テクニックは何だか変に上手になる気がする。
どこまで責任を持って、当事者として
語っているのか

変えたほうがいいこと。やっぱり変えてはいけないことを冷静に見定めないといけないと思う。
運動会や、あと近いところだと飲み会やら働き方だろうか。形を変えることで失いそうで、失ってはいけないものがあるとしたら、それは何か別の形で補完できないか、そこまで考えられるようにしたい。

何より自分が最新の知見にアップデートされていないのに、過去に体験したものがなくなることへの勝手なノスタルジーだけで何かを言うのは本当にやめようと反省しました。

今月からもう少しサクッと読める感じの新装版。また来月、ここでお待ちしてます。


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近森 未来(資生堂クリエイティブ コピーライター)
ここまで読んでいただきありがとうございます。 読んで、少し心がゆるんだり、逆にドキッとしたり、くすっとしたり。 おやつ休憩をとって、リフレッシュする感じの場所に ここがなれたらうれしいです。