人は「評価」がないと本当によりよく働けないのか
こんにちは、ナラティブベースのハルです。よく受ける質問のひとつに、ナラティブベースで働いているメンバーの「評価はどうしているんですか?」というものがあります。これに対しての回答は「評価しない」です。では、どうやって仕事のクオリティを保ち、人が成長する環境をつくっているのか?その組織運営のコツもまた「評価しない」だと考えています。
今回の記事では、自社の組織運営にも触れながら、組織における「評価」のあり方が今後どうなっていくのかについて考えてみたいと思います。
「評価」はなぜ生まれたのか?
そもそもなぜ、人事査定などの「評価」が生まれたのか?その歴史をググってみると、昭和初期にアメリカから日本に「生産性を落とさない(労働者を怠けさせずに働かせる)ための管理法」として導入されたのがはじまりのようです。
日本では1930年代に科学的管理法の一部としてアメリカから評価方法が導入され広まった。 その一つに荒木東一郎の1937年の「人事考課表」がある。 1970年代から1980年代の日本の大企業では人事考課は成績考課(遂行した仕事の量・質)、能力考課(仕事の遂行能力)、情意考課(仕事への意欲など)の三要素で行われた。(Wikipediaより)
その後、1990年代以降は成果主義が生まれ、とくに情意・能力考課は360度評価(上司からだけでなく、同僚や部下からも評価してもらう)に置き換わっていきました。
この背景を知ると、今の学校制度が導入された「労働者の質を均一化する」という目的と、生産管理の考え方がベースになっている点で共通しているのだなと理解できます。今の社会を形作る時期に導入された仕組みが根強く残り、それが現在求められる成果(目的)と一致していないという点では、働き方も教育もいっしょです。この記事のタイトルにした「人は「評価」がないと本当によりよく働けないのか」という問いは、「人は「成績」がないと本当によりよく成長しないのか」という問いと同じような問題を投げかけてきます。
「360度評価」のゆくえ
答えのあった時代から、答えのない時代へ…ということが言われて久しいですが、人事考査も成績テストも「評価」には尺度が必要で、尺度を定めるにはゴール=つまり答えが必要というシステムを持っています。だから、答えのない時代に適応させようとしても構造上無理があります。
そんな中、答えのない時代に、もしくは答えのたくさんある時代に、なんとか「評価」を続けようとして誕生したのが「360度評価」ではないかと思うのです。かつては人は労働者として均一であることが求められましたが、今は人は多面的な存在で、それを「評価」するには様々な角度から様々な価値観でみることが必要という考え方に変化してきました。
上記の記事にもある通り、「360度評価」は、パワハラ防止や、上司の一方的な思い込みによる評価の不正確性を回避するなどの点で一定の効果はあるものの、目的や使い方はまだ企業によって異なるようです。「ライオンは昨年3月に「多面行動能力測定」をテスト導入し、<中略>「成績評価には使わない。社員の自律的な成長支援には、幅広に能力をみることが必要。結果を上司と部下で共有し『どのように能力を伸ばすか』に活用する」と話す」といった新しい動きも出てきていますが、こちらも「測定」という点で尺度の必要なシステムからは脱却していない感が否めません。「360度評価」の先で、今後、組織における「評価」はどのような進化が求められているのでしょうか?
「評価しない」とどうなるか?
ここで少し話は変わりますが、冒頭で書いた通り、私の運営するナラティブベースでは「評価」をしていません。35名ほどの小さな組織なので、そもそも評価がさほど必要ないのでは?という話もあるのですが、フリーランスの集まりである分クオリティはバラバラしがちですし、会社で評価をしてもらい自分の成長を確認してきた経験をもつメンバーの中から「定期的に評価があった方がモチベーションが上がる」といった意見もあり、組織として必要なのではないかと考えた時期もありました。しかし、「人は「評価」がないと本当によりよく働けないのか」という問いを元々持っていた私はその選択に違和感があり取り入れてきませんでした。そして、長らく「評価しない」組織運営を続けるううちに、自然の摂理とも思える作用が働き、ビオトープみたいなワーキング環境ができあがりました。っというのが現状で、おとぎ話のような、本当の話です。
「評価しない」組織に起きたこと
・関係性がフラットになり安心安全な場が保てるため人が育つ!
・望まれる方向ではなく、望む方向に行きたがる自律性が育つ!
・「要は近づき、不要は遠ざかる」自浄作用がはたらきよい人が残る!
ナラティブベースは雇用関係を持たないプロジェクトベースな働き方なので、普通の会社とはそもそも体制が異なりますが、「評価しない」ことが加わり独特の環境ができあがりました。まず、「安心安全な場」が保てることで、弱みも含めた自己開示が進み協業による補い合いが促進され、相互成長による人の育成が進みました。「望まれる方向」がないので「望む方向」を絶えず問われることで習慣となり、枠組みを外し自身の可能性を探る自律性を育みました。また、仕事ぶりから信頼や期待が集まる人に自然に仕事がいき新陳代謝が発生しました。(詳細は以下の社史のマガジンで書きましたので、よろしければご覧ください。)
ナラティブベースの環境は、一般的な会社からみたら特殊なものかもしれせんが、実験的な組織運営で起きたこれらのことには、新しい組織運営のヒントが含まれていると思っています。
これからの「評価」はどうなっていくのか?
さて、とはいえ、大きな事業を営み従来のシステムで体制や制度が整った企業では、いきなり「評価をしない」という選択は突拍子もないですし、人事を自然の摂理に任せるなんて何をいっとるんだ!という話になるのはごもっともです。しかし、コロナ禍で改めて問われた「強い組織」のあり方として、『分散型』を目指す流れは止まりませんし、「評価」の変化の流れともリンクしていくことになると考えています。
組織がより小さな単位で運用されるようになれば、ゴールや尺度は大きな範囲で標準化しなくとも小さな範囲の合意で成り立つようになり、測定し数値化する必要のない「信頼」や「期待」に近いものになるでしょう。
また、仕事の進め方もセクションや職務を明確にし分業するのではなく、そこにいる人で組んで協業をしていくプロジェクト型になっていくでしょう。
ナラティブベースでも起きていることですが、そういった環境では自然と「評価」は変容していきます。今まで他者に頼っていたものが自己で行うものになるのです。他者評価から自己評価へ。これって本当の「自律」ですよね。
さて、最初の問いに戻ります。
「人は「評価」がないと本当によりよく働けないのか」
あなたの答えは、どうでしょうか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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