子どもの「いじめ」のことを考えるのは、もうやめてしまおう
毎年10月に発表される,文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」の令和4年度版によれば,当該年度中に小学校・中学校・高等学校等で認知したいじめは,過去最多の68万1948件に上った。また,身体的被害や長期欠席などが生じたいわゆる「重大事態」は217件増の923件と過去最多だった。
私は,これまでの経緯を踏まえれば,この件数の増加はよい傾向であるとも思っている。なぜなら,これは「認知」件数であって,いじめとして認知して顕在化させることができた数とも言えるからだ。
一般的に,いじめは年齢が上がるごとに潜在化し,周りの大人から気づかれにくくなっていく。いじめの現場も,SNSなどバーチャル空間へも広がっており,尚更周りからは見えにくくなる。
いじめ防止対策推進法が施行されて10年,この数値の増加が,いじめに対して目を光らす向きが強くなってきたことの証左だとすると,そのことは歓迎すべきことである。
しかし一方で,依然としてカウントされない「いじめ」も多い。もちろん誰からも認識されていない「いじめ被害」もあることは大きな問題が,加えて,現象として認識されているにも関わらず,教育現場において「いじめ」と位置付けられず,適切な対応がなされなかったり,対応が遅れたりして,児童・生徒の命に関わる重大事態になることも少なくない。
実際,文部科学省も「重大事態のうち4割がいじめとして認識されておらず、早い段階で対応していれば深刻化を防げた可能性がある」としている。
私のリアルな「いじめ」対応日記から
私も今年で20年余りになるが,学校現場の最前線で臨床心理士としていじめの対応にあたってきた。その中で,いじめの対応を巡って,学校の教員とケンカに近い言い争い(・・いや,ディスカッション)になったことは一度や二度のことではない。
一番多いのは,それが「いじめ」に当たるかどうかだ。例えば一部の校長などの管理職や教員と「これはいじめではない」「いやいじめだ」「いやいじめではない」「いやいじめだ」「いやだから,いじめじゃない」「いやいじめですって」という堂々巡りを何度も何度も繰り返してきた記憶がある。
もちろん私は早期にいじめと認定してしかるべき対応にあたるべきだとする立場だが,そんなときに一部の学校(特に校長などの管理職)が使う常套手段は「これはいじめではない。''行き過ぎた行為''の範疇だ」という詭弁だ。
なぜ現場は「いじめ」を認めたがらない場合があるのか
なぜ''行き過ぎた行為''などという言葉遊びのようなラベリングで済まそうとするのか,その理由は主に3つあると考えられる。
一つは,「いじめが起こる=教員の指導力不足」という評価がなされるのではないか,という恐れがあることだ。特に公立学校の校長,副校長(教頭)などの管理職は,学校外も含めた全体で見れば,教育委員会と一般教員の中間管理職的存在であり,上から評価される立場でもある。「重大ないじめが起こった学校の校長」というレッテルを貼られると,自分のその後の処遇や評価に影響が出るのではないか,と考える場合があるからである。担任教員が「いじめが起こったクラスの担当」と思われることを懸念するのも,同様の背景があると思われる。
二つ目は,報告と書類作成の労力である。いじめが発生した場合,学校には教育委員会に報告したり,書類を作成する労力が生じる。ただでさえ調査や回答等のための事務処理の仕事が多い中で,さらに仕事が増えることを避けたいという心理は一定程度働くものと思われる。一度いじめが起きると,対応履歴の記録や情報共有,いじめ解消の報告も密に行わねばならず,業務を圧迫しうるのは確かだろう。当然,児童・生徒に直接向き合う時間も減ってしまう。言葉を選ばず言えば,要は「メンドクサイ」と考える人もいるということだ。
三つ目は,教員の教育観の中にある「子どもたちはみんな仲良くあって欲しい」という,ある種の願い(幻想)も影響しているように思われる。もちろんそれは然るべきことだし,集団を指導・管理する立場からすれば当然のことかもしれない。しかし,現実はそう簡単なことではないのは,例えば大人の社会や職場に置き換えれば自明のことである。
一部の教員は,「あれはじゃれているだけ」「本当は仲良いんです」「おふざけの範囲」などと見立てることがあるが,いじめ被害者がカラ元気や愛想笑いで耐えているだけだったりするし,そもそも元々仲のよい(距離が近い)関係性の中でのいじめが一番起こりやすいことはデータでも分かっている。''いじり''も''いじめ''に容易につながる。でも「仲良くあって欲しい」「いじめとは思いたくない」という心理が働いてしまうのだろう。
「いじめ」のあるあるダメ対応
ちなみに,特に小学校で未だに多い対応だが,事態が発覚したその後すぐ,いじめ加害者と被害者を向かい合わせて加害者に対して説諭し,謝罪後に仲直りを促す指導が散見される。被害を受けたその日か数日以内に,握手させて「はい,この件は解決ね!」とすることもある。
私はこれは,最も事勿れで,被害者感情に配慮がない指導方法だと考えている。すぐ謝って仲直りさせようとしたところで,いじめ被害者の心がついていっていないのを何度も目の当たりにしてきたからだ。これは場合によっては「学校は何もしてくれない」「先生は自分のことを分かってくれなかった」などという,ある種の2次被害につながりうる重大な問題である。
最優先すべきは,物理的に距離を離すなどして再発を予防して,被害者が安心して学校生活を送れる環境づくりに注力することである。表面上の無意味な親和的雰囲気を醸成することではないのだ。
子どもの「いじめ」について考えるのは,もうやめにしてもいい
私は子どもの「いじめ」については,もう考えるのをやめたらいいと思っている。言い換えれば,「いじめ」という言葉や定義自体が,限界を迎えていると考えていて,この概念があるからこそ,減らない/無くならない,もしくは既存のいじめが続いてしまっている,とも思えるからだ。
ところで,そもそも「いじめ」という言葉は,江戸時代から使われてきているという説もあるが,文部科学省がいじめを定義し対策を講じはじめたのは1985年頃からである。社会問題化した''いじめ自殺''のいくつかの事件を経て,文部省/文部科学省はその都度定義をアップデートし,よりネット空間も含めた広い範囲のいじめを捉えうる考え方にシフトしてきている。
2013年には,大津で起きたいじめ自殺事件を契機として「いじめ防止対策推進法」が成立・施行された。
これは,上記の包括的な定義のみならず,いじめの禁止や,いじめ対応と防止について学校や行政,保護者等の責務を規定した,いじめに特化した日本で初めての法律である。
この法律を背景にして,社会や教育現場の中でのいじめに対する意識・認識は向上したし,定期的ないじめ対策のための校内委員会も開かれるようになった。また,いじめ被害アンケートが定期的に行われたり,全国的にスクールカウンセラーの人数も増えた。
しかし一方で,いじめが「法律違反」だ,という認識を前提に対応がなされているかといえば,そうではないし,法律の趣旨を反映した教育活動・支援が完全に具現化されているとまでは言えない。
はるか昔からあった「いじめ」は,多くは「児童・生徒間の人間関係の問題」「被害者にもいじめられる理由がある」といった見方で、法的な規制が見送られ続けてきたわけだが,法律が制定されてなお,現実にはそれら以前の認識も残り続けているように感じている。
これは少年法にもいえることだが,「いじめ」という概念にも,子どもは発達途上の存在であり,伸び代があり,成長や更生こそが重要だから,ということで,ある種の治外法権的な見方が,大人にも子どもにもある場合がある。
これでは,いじめはなくならないし,「やっちゃっても仕方ないよね。だって,子どもなんだから」という受け止めにもつながりかねない。
「それって法律違反で社会のルールを破ってるよ」って,もっと毅然と明確に教えていくべきではないか
言うまでもなく,被害者が心身の苦痛を感じるいじめ行為は、法律に照らすと主に「刑法」において規定されている各犯罪に該当しえる。暴行罪,傷害罪,監禁罪,窃盗罪,強盗罪,脅迫罪,恐喝罪,強要罪,侮辱罪,名誉毀損罪等々・・。
仮に犯罪でなくとも,先述の法律では,いじめ禁止が明文化されている。
「いじめ」は法律違反であって,「社会のルールを破っている」
そのことこそを,もっとシンプルに子どもに教えるべきではないか。
実際,文部科学省も,いじめ事案における犯罪行為を想定し,警察への相談・通報について適切に検討し対応するよう,全国に通知を出している。
しかし,この通知が実効性を備えていたかといえば,「?」であるのが現状だ。
''型通りのいじめ対応''はうまくいっていない
今後は,まず「いじめ」が深刻化・複雑化すればするほど,今学校で行われているいじめ加害者への指導は,うまくいっていないことを認識すべきだ。
一般的に,例えば他者への嫌がらせレベルのいじめが起こった際,まず学校では関係児童生徒への聞き取りを元に,クラスでの「全体指導」が行われることが多い。つまり,クラスの成員に対して一律に「こういうことしちゃダメですよ」と注意喚起の指導を行うのである。
しかし,この指導を理解し行動に反映できるのは,元々いじめ加害なんかしないような子どもであって,当の加害者は「あーなんか担任言ってたよねー」くらいのレベルで,響いていないことも多い。私も専門家の立場から,本来きちんと話を聞くべき子どもがほぼほぼ聞いていないし,全然理解していないのを何度も目の当たりにしている。
その前後に個別に当該児童生徒に指導したとて,響かない子はやっぱり響かない。指導する側の力量その他の要因はあるにしても,理解できなかったり,行動が変わらなかったりする子は,大勢いる。
保護者に連絡して家庭での指導を促したとて,家庭で適切な指導がなされないばかりか,逆ギレしたり,加害者であるにもかかわらず被害者ぶる家庭も珍しくない。
そして,そんな「ゆるくて」「遅くて」「徹底していない」対応を続けるうちに,そのうち加害はどんどんエスカレートし,被害者が不登校になったり,死にたくなるくらい思い詰めることも当然出てくる。
やはり,「学校内での教育」という大義名分に基づく対処だけでは,限界があるのだ。
「社会のルール破ったら自分にそれなりの不利益があるんだよ」もしっかり教えたい
では,学校が取ることが出来る,しかるべき毅然とした対処とは何か。
それは「出席停止」である。学校長の申し出に基づき,児童生徒を学校に登校させないという措置を取ることが出来る旨,学校教育法では明文化されている。
しかし驚くべきことに,2020年から2022年まで,全国の小学校・中学校において,いじめに起因した出席停止措置は,各年1件ずつの計3件のみであり,実質仕組みとしては完全に形骸化している。3年で3件,しかも全国全て合わせても,である。別にコロナ禍が影響していたわけではない。小学校に至っては,1997年以降の24年間でも,わずか3件にとどまっている。
教育委員会に判断を仰ぎ,加害者の保護者にも理解を得なければいけない建て付けになっていることも大きなハードルになっているが,必要だからあるはずのルールが,全く意味をなしていない。
そればかりか,なぜか被害者のほうが別室登校になったり,不登校状態を余儀なくされていることがほとんど全てだ。
加害者の出席停止の話になると,必ず「加害者の学ぶ権利」を言い出す人がいる。でも,被害者の学ぶ権利がまさに脅かされているのに,加害者の権利が守られる構造になっているのは,どう考えてもおかしい。
文部科学省は,あくまでも「出席停止」は懲戒ではなく「学校の秩序を維持し、他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障するという観点から設けられた制度」と通知の中で言及しているが,であればその目的のために加害者に罰が加えられる構造になるのはやむを得ないことだろう。それが道理に適った社会の仕組みなんだから。
数少ない「出席停止」措置では,実際は加害者を別室登校にすることが多いが,教室に参加できないことで,「学ぶ権利」とか言うのであれば,オンラインにしてもいいし,他校への転校を勧告するのでもよいだろう。他のクラスに移籍させるのも,最低限の対処としてあり得る。
いずれにしても,本来まずは被害者が安心して学べる居場所としての教室を守るための措置を早急に,かつある程度強硬に,取るべきではないか。そのための,加害者の不利益は当然本人が負わなければいけないということも,経験を通じて教えていくべきだろう。
もしかすると今まさに困っていたり,悩んでいるみなさんへ
学校に対応を求めて埒があかなければ,ぜひ早めに教育委員会や警察に相談してください。できるだけ,大騒ぎしてください。
「大事(おおごと)にしたら学校との関係が悪くなるのでは」「子供のことに大人が入るのはちょっと・・」「さらにいじめがエスカレートするのでは・・」「・・できるだけ穏便に済ませたい。。」
保護者のみなさんは,いろいろ付随する心配事もあるでしょう。それも当然のことです。でも,それはお子さんの心身の安全や,健全な成長につながる環境作りに比べたら,取るに足らないこと,と考えていただきたいです。
保護者とお子さんで,時には励まし合って戦わなければならないときもあるのです。仮に命を脅かされる状態ではなくとも,いじめ被害の心の傷は,ずっとずっと尾を引いて,大人になってもトラウマを抱え,場合によっては生活や人生に暗い影を落とします。パーソナリティの形成にも,当然影響を与えます。
家族,友人,専門家・・頼れる人には頼りつつ,ぜひ,SOSの声を率直に上げていただきたいです。
理不尽な被害には断固として「No!」を突きつける。そんな大人と子どもを,私はこれからも専門家として,一人の大人として,サポートしていきたいと思っています。
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