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これからのコミュニケーションにはリテラシーだけでなく、オラリティーも重要だ。

どうもこんにちは、uni'que若宮です。

SNSでの発信とともにトラブルも増え、「リテラシー(テキストや文脈を理解する力)」が大事、と言われます。

また一方、リモートワークになってslackなどチャットでのコミュニケーションの重要性が増しています。SNSやチャットでは、しばしばコミュニケーションのすれ違いが起こりますが、こういったミスコミュニケーションを防ぐためには、「リテラシー」だけでは足りなくなっているのではないか、というのが今回の話です。それって実は「リテラシー」と「オラリティー」という文化のすれちがいなのではないか。


チャットで「ピリオドを打つ」のは冷淡?

こういったすれ違いはとくにジェネレーション間でのギャップとして起こりがちです。

チャットでのコミュニケーションに関して、こんな記事が出ていました。

「ピリオドには、ここで文章終わるという記号としての機能しかない。年配の方はそのように思うかもしれないが、デジタル・ネイティブの若い世代は、友好的でない、ともすれば、敵意があるのではないかと感じる人が多い」

さらに文中には、

「どのセンテンスにもピリオドを打つような人は、年配かトラブルメーカーくらいだ」

とさえ言われています。ちなみにこのnoteの文章ではすでに9回「。」を使ってしまっています。それどころかタイトルにまで使ってしまっていて、うわヤバい、年配。

しかしこれは果たして「年代」の問題なのでしょうか?なぜ言い切りのピリオドが冷淡な印象をあたえるか、というと

「この話はもうおしまいだ。少なくても、私が言うべきことはこれ以上何もない」

というスタンスを強調しているように思えるからだといいます。

たとえば

今日も暑くなるらしいですねー

というチャットに対し、

らしいですね

らしいですね。

と返ってくるのだと、前者のほうがたしかに次に続けやすい気がします。逆に

らしいですね!

とくれば会話がはずみそうですよね。これ、声に出して読んでみるとよりわかりやすいのですが、比較すると終止符があるほうが「らしいですね。」(↘)と文末がさがりclosingされているような感じもします。


もちろん「。」や「.」自体にそのような拒絶の意思はありませんし、「デジタルネイティブ」がただ疑り深いというわけでもありません。それは「チャット」というコミュニケーションの特質なのです。その証拠に、メールや手紙の文では「。」があろうがなかろうが、それほど気にならないでしょう。


終わりじゃなくて間にいれろ?

「。」や「.」は無いほうがよい一方、チャットでは「うーん」や「えーと」というような言葉がむしろコミュニケーションを円滑にするようです。

これ、「。」や「.」が「終止符」であるのに対し、「えーと」というのは「間投詞」なのですね。

つまり、コミュニケーションを「終わらせる」のではなく、「間」にはいって「つないでいく」ためのものなわけです。


しかし一方で、手紙やメールで「うーん」とか「えーと」とかいうとちょっと子供っぽく、洗練を欠く文章になるでしょう。メールとチャットでは明らかに文法(マナー)がちがうのです。


チャットは「文字の文化」じゃなくて、「声の文化」?

ここで思い出したのがウォルター・J. オングパイセンの『声の文化と文字の文化』という本です。この本では、文字が発明され、印刷文化によって黙読が主体となってきた「文字の文化」と文字を持たない「声の文化」との比較がされていて、「文字」と「声」といういつもは意識されない透明な媒体が人間の思考や文化にどれほど影響を与えているのかがわかるめっちゃ面白い本なのですが、

その中で、9つの「声の文化」の特徴があげられています。

1) 累加的であり、従属的ではない
2) 累積的であり、分析的ではない
3) 冗長ないし「多弁的」
4) 保守的ないし伝統主義的
5) 人間的な生活世界への密着
6) 闘技的な調子
7) 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない
8) 恒常的維持的
9) 状況依存的であって抽象的ではない

これが、かなりチャットコミュニケーションに当てはまると思うんですね。

長くなるので全部は解説しませんが、「声の文化」は「文字の文化」と比べると構造的ではなく、書きながら追加されていく「累加的」な感じとか、絵文字や顔文字が多用されて「感情移入的」だとか、「客観的に距離をとらない」とか、チャット・コミュニケーションの特徴としても言えます。

この逆が書き言葉で、より構造的で抽象的、客観的な文体になります。書面やメールはこちらの感じが強いですよね。


そもそもそう思って考えてみると、チャット(ぺちゃくちゃ喋り)とメール(手紙)というのはまさにサービス名からして「声の文化」と「文字の文化」のメタファーそのものなわけです。

SNSでいうとTwitter(つぶやき)とnote(記録、覚え書き、文書)とのちがいもまさにそれです。以前

こんなツイートをしたのですが、よく考えたら「原文の長さ」が問題なのではなくて、「媒体」の「文化」の違いでした。

「6)闘技的な調子」や「7)感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない」ゆえに、同じ5千字でもtwだと燃えるのです。


「冗長」の重要性

こちらの記事の中にコミュケーションツールを「同期性」と「非言語的手がかり」を軸にした分類マップが載っています。

このマップで右上にいくほど「声の文化」的なツールだということもできるでしょう。メール→チャット、Instagram→story、YouTune→ライブ、というようにテクノロジーの進歩によって、コミュニケーションのサイズはどんどん小さく、速く、揮発的になってきているのです。

さらに、記事中では(コミュニケーション自体ではなくイベントについての言及なので少し意図は違いますが)「冗長性」への言及もあります。

ただし、オンラインへのシフトによって失われるものもある。筆者が「冗長性(redundancy)」と呼ぶものだ。

「冗長性」も声の文化を理解する上でとても重要な性質ですが、「冗長」とは、言い換えれば「一見無駄なもの」ということです。


平田オリザさんが著書『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』の中で「対話」と「会話」とを分析しつつ、「冗長率」という尺度を提出していますが、

そこで再考されるのは、「効率よく情報を伝える」ことがコミュニケーションではない、ということです。

ピーター・ドラッカーはマネジメントスキルとしてのコミュニケーションについて、

コミュニケーションは、必ずしも情報を必要としない。実際いかなる論理の裏付けもなしに経験を共有することこそ、完全なコミュニケーションをもたらす。
情報が多くなるほど、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になる。情報が多くなるほど、コミュニケーション・ギャップは縮小するどころか、かえって拡大する。

といっています。最近、「雑談」の価値が再注目されていますが、

リモートになって「冗長性」が下がりがちだからこそ、その価値を理解し、冗長率をコントロールするスキルが必要になってきているのではないでしょうか。


オラリティーも身につけよう

以上のように、チャットやTwitterなど、「声の文化」的なコミュニケーションが増えてきた現代において、コミュニケーションをすべて「文字の文化」から捉えようとするとミスコミュニケーションの種となります。

よく、Twitterでは情報の不足や論理の不整合をついたり、「正しさ」をベースにして「正論マウント」のリプライを受けることがあります。そしてそれに対し発信者が感情的なリプライで返したりすると徐々にヒートアップしてしまうのですが、ここに起こっていることは内容というよりは「文化」のすれ違いであり対立なのです。それを理解しないままでは野球とサッカーをそれぞれやっているようなもので、コミュニケーションが前に進みません。

Twitterやチャットは、正しさや客観性よりも、状況依存的で感情的な文化空間であり、そこではむしろ冗長性こそがコミュニケーションの核となります。どちらがよいと言うのではなく、コミュニケーション文化のちがいなのです。チャットでの言い回しにいちいち「重複が多い」とか「まとまっていない」とか指摘することは、むしろコミュニケーション・スキルの低さの表れだと言えます。

オングの『声の文化と文字の文化』の原題は「Orality and Literacy」といいますが、「リテラシー」は基本的には「文字の文化」のものです。
デジタルやオンラインでのコミュニケーションが増えてきて「literacyリテラシー」を言われることが増えてきました。しかしその中にはそもそも「リテラシー」とはちがう文化的次元のコミュニケーションがあることを理解し、媒体やコミュニケーション手段によって、「オラリティー」的な応答のモードでコミュニケーションするスキルがこれからは大事になっていくのではないでしょうか。

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