"多様性"が社会を分断させている
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"多様性"が社会を分断させている

「多様性」という言葉は、今の社会の中で金科玉条みたくなっています。あらゆるメディア、SNSを覆い尽くしているみたい。「多様性を尊重しよう!」

その一方で、実社会に目を向けてみると、「多様性の尊重」とは真逆の分断が起きています。差別、いじめ、男尊女卑の思想や社会システム、外国人に対するヘイトスピーチ……、ネット上では「ネトウヨ」とか「パヨク」とか「ツイフェミ」とか……、互いを見下したレッテル貼りの応酬が繰り広げられています。

この社会の分断が先鋭化しているのが、アメリカです。先の大統領選の選挙結果を覆そうとしたトランプ前大統領の支持者が連邦議会議事堂に乱入したのは、衝撃でした。下記の記事には、今なお、アメリカの分断が進行していることを示すデータが掲載されています。

米CBSニュースの調査では共和党支持者の57%が民主党を、民主党支持者の41%が共和党を、それぞれ政治の対抗勢力でなく「敵」とみなす。議会占拠後も過激派勢力は水面下で増殖し、治安当局の警戒が続く。米民主主義の足元はぐらついたままだ。

「敵」……。敵かぁ……。

確かに、多様性とは、いわば「みんな違って、みんないい」ということ。これが、「みんな違ってよくなった社会」の末路なのだろうか。それで、いいのだろうか。

多様性は、民主主義と相性が良くないのだろうか……?

💭

そんな感じで多様性にモヤっていた時に出会ったのが、伊藤亜紗准教授の『手の倫理』です。本書には多様性について言及されている部分があるのですが、そこで、バキュンと撃ち抜かれました。

伊藤さんは、望ましい「多様性」の形を、人と人との違いを固定化するものではなく、個人の中にあるもの、とします。ちょっと長いですが、本書から引用します。

人と人との違いを指す「多様性」という言葉は、しばしばラベリングにつながります。あの人は、視覚障害者だからこういう配慮をしましょう。この人は、発達障害だからこういうケアをしましょう。もちろん適切な配慮やケアは必要ですが、まさに倫理ではなく道徳の領域で、個人が一般化された障害者のカテゴリーに組み込まれていく。いつもいつも同じ役割を演じさせられるのは、誰だって苦しいものです。

当たり前ですが、障害を持つ人はいつでも障害者なわけではありません。家に帰ればふつうのお父さんや年頃の娘かもしれないし、自分の詳しい話題になれば、さっきまで介助してもらっていた人に対して先生になることもあるでしょう。

これだ、と思いました。

多様性とは、個人の中にあるもの。「多様性を尊重する」とは、『「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接する』こと。

「みんな違ってみんないい」の多様性は、大切ではあるのだけれど、一歩間違えれば、相対主義になります。「他人のやることに口を出すな」というわけですから、いわば、不干渉の思想です。とてもシンプルで、楽ではあります。気に入らない相手は、無視すればいい。

でも、これでは、完全に思考停止になります。本書にある通り「社会全体が関わってくる問題の場合には、そこにおいてどれほど意見が異なっていようとも、なお理を尽くして、お互いを尊重しつつ、なんとかして協調していけるよう道を探らねばならないのに、この決まり文句(筆者注:他人のことに口を出すべからず)によって、そこから目をそらしてしまう」のです。

💭

実はこれ、民主主義とも密接に関わっている話だと思います。「民主主義」という言葉の定義は人によって異なりますが、私は宇野重規教授が著書『民主主義とは何か』で紹介してくださっていたトクヴィル(19世紀のフランス人政治思想家・法律家・政治家)の定義がとても好きです。

トクヴィルは著書『アメリカのデモクラシー』の冒頭で、次のように書きました。

「私はアメリカの中にアメリカを超えるものを見た」

トクヴィルは本書を執筆する前に実際に米国(「建国の父」たちが退場した後の時代)に渡り、人々の生活をつぶさに観察しました。彼は、連邦議会の政治家には失望していたようですが、日々生活を営む人々の姿に衝撃を受けます。

人々は地域の諸問題をよく理解し、自分事と捉え、その解決のために仲間と集まり、実際に行動していたのです。学校や病院、地域のインフラなど、自分たちの力でお金を集めて建設したりしていました。トクヴィルは、ここに民主主義の真髄を見出します。彼は、デモクラシー(=民主主義)を、単に、選挙によって代表を選ぶという政治制度ではなく、人々がその日常生活の中で自ら統治を行なっていることだと捉えました。

これは、本当に、今なお示唆深い話だと思うのです。目の前に実在する自分たちの問題を解決するのに「他人のやることに口を出すな」では、話になりません。どんなに腹の立つ人がいたとしても、向き合って、議論せねばなりません。意見が異なる人と議論する時に大切なのは、信頼関係です。「こいつとは、この部分では話が合わないけど、こっちではわかり合えている。そして、根はいいやつだしな」みたいな。この態度こそ、本当の意味での、私たちに必要な「多様性」ではないでしょうか。

私はいまNPOで働いていますが、この重要性を日々強く感じています。私たちが日々向き合っている社会問題は、実際に多くの人を困らせています。でも、政治はそこまで目が行き届いていません。だから、私たちがあらゆるステークホルダーと話をし、事業を通じて解決策を見出し、実践し、成功事例をつくりだし、それを政治に持ち込んで法律にしてもらい、全国的に解決してもらう……、こんなことをしています。

このプロセスでは、当然、意見が異なる人が出てきます。でも、「俺たちのすることに口を出すな」なんて、言えません。そんな態度では、社会は変えられないんです。地道に、時間をかけて、相手とコミュニケーションをとり、理解をしてもらう努力が、必要なんです。どうしても。

もちろん、現代の政党政治の宿命ですが、政党は特定のセグメントの人の利益を代表する機能を持っています。だから、政党で意見が異なるのは当然です。でも、これを「多様性」で片付けては、分断が進むだけ。私たちの社会が進むべき方角はどっちなのか、不断の議論が必要です。そしてそれは、政治家だけに任せていいものでもありません。トクヴィルが喝破した通り、私たちのような草の根でこそ、大切なんだと思います。

💭

とはいっても、こんな考え方は、人によっては暑苦しいかもしれません。「俺のやることに口を出すな!」と、思う人もいるかもしれない。でもその「多様性」の先にあるのは分断された社会で、それが誰にとっても望ましいものでないことは、人類の歴史を見れば明らかです(先のアメリカの例でいえば、南北戦争で70万~90万人が死亡)。

そしてもうひとつ、常に自覚せねばならないこともあります。それは、私たちにそれぞれ意見があったとしても、それは不完全である可能性が(極めて!)高いということ。所詮、人間がひとりで考えたことなんて、穴だらけなんです。それは、他人と議論すれば、すぐに浮き彫りになります。だからこそ、明治の頃、私たちの祖先はこう言いました。

「万機公論に決すべし」と。

人類の長い歴史の中で、紆余曲折をえながらも、民主主義はここまで生き残ってきました。専制的な政体に叩き潰されたことも幾度もありましたが、そういう政体は長続きしませんでした。凄い能力を持ったリーダーがいれば、その人の存命中は凄い国になるけれど、いなくなると、ダメになってしまうのです。

選挙に行くだけが、民主主義じゃありません。

私たちは、自分たちの不完全性、そして他人のうちにある多様性を尊重し、どうすればみんなにとってより良い社会になるか、一緒に考える必要があります。

意見の異なる人と、話をしよう。生の人間に、触れてみよう。その積み重ねが、私たちの社会をより良くするのに、大切だと思うんです。

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認定NPO法人フローレンス代表室長。政府「こども政策の推進に係る有識者会議」委員。著書『パパの家庭進出が ニッポンを変えるのだ!』 ▶︎ http://amzn.to/2QTNtCn 。前職はリクルートHDの新規事業開発室でプロダクトマネージャー。妻と娘と三人暮らし。