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「自分」とは界面での発火なのではないか仮説

お疲れさまです。uni'que若宮です。

日経COMEMOで「アートシンキングの学校」というのをプロデュースしているのですが、先日、現代美術家の高嶺格さんをお招きしてその#2が開催されました。

このイベントの中でも「自分」についての話が出たのですが、今日はちょっと「自分」ということについて、これまでなんとなく考えてきたことを書いてみたいと思います。

「自分」は動的である

アートシンキングは「自分」起点、という言い方をしますが、この「自分」、「自分のことは自分が一番良く分かってる」みたいなものではありません。「自分」とは自明でも予め存在するものでもなく、もっと動的なものだとおもうのです。

たとえば「自分探し」というような言葉もありますが、「自分」というのがどっかにあって、それを見つけ出す、というのでもなく、アート思考的な「自分」はむしろ「つくり出す」という感覚に近いと思っています。

あくまでたとえですが、僕のイメージは「発火」のような感じです。

ひとは生きたり働いたりしている中でつねに「自分」であるわけではなく、むしろ「自分」でない時間のほうが大半で、ときどき「ぱちっ」という感じで火花が散る、その刹那に浮かび上がる輪郭が「自分」なのではないかと思うのです。

ぱちっとはじける。「あ、今「自分」が発火した」という感覚があるときがあります。そういう「発火」のタイミングとしては3パターンくらいがある気がします。

「自分」は他者との界面において発火する

「自分」は一人ひとりちがういびつな形をしていて、時々でその形を変えていきます。しかし通常僕たちはそのいびつな「自分」の輪郭をよくわかっていません。

これはたとえば、真の暗闇にずっといると自分の輪郭がわからなくなるようなものです。暗闇の中で自分の体の輪郭を知るには、手足を伸ばしたり、動いてみるしかありません。

身体を動かして何かにぶつかると、それを押し、押し返される感覚によって「自分の形」を確かめることが出来ます。

ですので基本的に「自分」は動くことでしかわかりません。ドラッカーの『マネジメント』にこんな言葉があります。

人にとって、働くことは重荷であるとともに本性である。呪いであるとともに祝福である。それは人格の延長である。自己実現である。自らを定義し、自らの価値を測り、自らの人間性を知るための手段である

「働く」ことが「自らを定義し、自らの価値を測り、自らの人間性を知るための手段」と言われています。「価値」とは誰かにとっての価値であり、自分と他者の掛け算ですから、他者との関わりがあってこそ測れるものです。

アート作品が鑑賞者抜きにはアートにならないように、人は「自分の価値」を自らの内だけで確認できるわけではありません。「自分」は他者の反応や相互作用の中でのみ見えるのです。

自分が何か行動を起こし、それに対して周囲が反応する。その時に火花が散る。自分の価値が見える。感謝であれ反対であれ、そこにはじめて「自分」が生まれます。

「自分」はマージナルな界面において発火する

第2の発火は「名」や「集団」の界面において起こります。

先日ジェンダーギャップの話を書いたところ、「マジョリティの側からよくぞ言ってくれた」という反応を想像以上にたくさんいただきました。

期せずしてそういう感謝の声をいただいてとてもありがたかったのですが、本音を言うと、僕はそういう声の中の「マジョリティ」という言葉にちょっと驚きました。たしかに僕は「男性」なのでジェンダーギャップの話をしているときには「マジョリティ」なんだけれども、自分としては「マジョリティ」という意識がなかったからです。

むしろ男性の中で女性のことばかりいう人がレアなのでこれだけ反響をいただいたわけで、どちらかというとマジョリティである男性側にも女性側にも帰属ない「超マイノリティ」なんじゃないか、という感覚をもつことがあります。

これはアートとビジネスを混ぜるような活動をしていても感じることで、なんというか、どちらの陣営からも「異物」として扱われる感があるんですね。それどころか割とはっきり「正統派」の方から拒絶の反応を示される時もあるのですが、どちらからも石が飛んできたりして、ちょっとつらいときもあります(笑)

そういう時は、なんとなく「マージナル・マン」という概念を思い出します。

周辺人,境界人ともいう。人間生態学の創始者 R.E.パークの造語で,異文化への移行や人種的混血によって相異なる文化にはさまれ,そのどちらにも完全に同化できず,いつも「まなざし」の意識をもちながら破滅的な不適応に陥っていく人間の類型。
周辺人,境界人と訳される。二つ以上の異質な社会や集団に同時に属し,両方の影響を受けながらも,そのどちらにも完全には帰属していない人間のこと。不安定で動揺しやすい行動様式を示す。その一方で,一定の社会への単純な融合ができないことから,相対的に〈啓蒙された〉存在でありえ,創造性を内包する可能性をもつ。

「破滅的な不適応」や「不安定で動揺しやすい」危うさはありますが、「創造性を内包する可能性」ももつ。

「名や集団への帰属」はある種の安心・安定をもたらしますが、一方で「自分」ではない「らしさ」(「男らしさ」「子供らしさ」「日本人らしさ」etc...)に囚われてしまうことがあります。それは「自分」ではなく、僕の用語でいうと「他分(=他人の分節)」なのです。

逆に言えば「自分」が「発火」する時は、「どこにも属せない」あり方をしている時なことが多いように思います。

「他分」には回収できないようないびつな形の「自分」をそのままに出すとどうしても枠組みをはみ出してしまいます。枠組みを逸脱するマージナルな活動している時、「自分」が「発火」している、という感覚があります。

「自分」は古い角質との界面において発火する

三つ目のパターンは、「過去の自分」との界面において発火するものです。

「死んだ比喩」という言葉があります。比喩というのはなんらか異質な言葉の組み合わせを含みますが、その異質さがなくなり日常化した言葉のことです。

たとえば「彼はデート中一度も海に入らなかった。カナヅチなのだ」という文があると、普通の日本語話者はそれを「泳げない」ということだと理解し、あまり疑問は感じません。しかしもちろん彼は「カナヅチ」そのものではありません。

お隣韓国では「彼はビール瓶なのだ」というそうです。われわれ日本人はその言い方に慣れていないので、こちらの言い方には少し詩的な趣を感じるかもしれません。あるいは「浮かばず沈んでしまう」ということを表すのにまったく新しい言い方をして「彼は悲しみの沼に捕らわれたアルタクスなのだ」と言ったら、詩的な表現だと感じるでしょうか。しかし、初めて聞いたときには生き生きとして新鮮だったメタファーもいずれは「死ぬ」んですね。

「それが定石だ」という時、僕らはそれをもはや比喩だとすら思いません。「発火」していない。以前は発火した自分も、それが慣例的になり惰性化すると「発火」しなくなってしまうのです。

それはまるで肌の古い角質のようなものです。死んだ細胞は「自分」らしい瑞々しさをもはや失い、「他分」化しています。健康で生き生きとした肌のためにはターンオーバーが必要なのです。

以前自ら決めたことでも、もはや惰性化していることがあります。このような過去の角質に気づき、「古い自分」を剥ぐときに新たな「発火」が起きるのです。

「自分」を巡る冒険

「他者との界面」「マージナルな界面」そして「古い自分との界面」において発火する。

逆に言えば「自分」とは、他者との関わりなくして発火せず、マジョリティに安住するとき発火せず、変化なくして発火しない。

「自分」というと真ん中にあらかじめ確固として存在するように思われますが、僕にはそうではなく、「自分」とはむしろ「界面」に存するような気がするのです。そういう界面に「ぱちっ」と散る火花、それこそが「自分」なのではないか。

彫刻家が石から像を彫り出す時、その像が(イデア的に)もともと石のなかに埋まっていたわけではありません。像は石に入れられるノミの切っ先に徐々に現れてくるものです。あるいはまた、アートという営為自体、Work(作品、仕事)によってつねに「自らを定義し、自らの価値を測」っていく、界面で発火する動的な活動だとおもうのです。

「自分起点」というと「好きなことだけやればいい」という感じに捉えられがちですが、「学校行かないでゲームしてたい」とか「都合の悪いことはなかったことにする」とかそういうものではありません。そういう「既存の安全地帯の内側」に撤退する時には「発火」がないからです。

あるいは「自分探し」の旅というのも、どこかに「望む自分」があるのではありません。どこかにある、と思うことは、「おれはまだ本気出していないだけ」というモラトリアム的な逃避に似ています。そうではなく、むしろ旅の過程で「発火」するときに「自分」がつくられていくのです。

高嶺さんの作品づくりのスタンスにもそういうところがある気がします。

「こうだろう」という意味が発生しそうになったときに、それを裏切るシーンをわざわざ入れて、それを繰り返す
できるだけ作品にしづらそうなものに取り組む傾向はあるかもしれません。その難しさと向き合って、具体的なソリューションを見つけ出し、形にできるかどうか、ということに対する挑戦ですね。
よく思うのが、自分というのは自分がこうなろうと思って、こうなったわけではないということです。人間は作られるもので、自分はどう作られてきたのかということを、日常的に問う作業が非常に大事だと思います。
「今、なぜ自分はこう思ったのか?」「それはどこからきているのか?」ということを常に考える。それは、自分を社会の中でどう位置付けるかということと、同じ作業だと思います。

「自分」は自明ではなく、常に自分が「自分」であるわけでもありません。

あなたは今日、「自分」が「発火」したでしょうか?
最近「発火」したのはいつでしょうか?

もしあまりにそれが少ないなら、固定的で画一的な「他分」になってしまっているのかもしれません。働いたり生きることの中で、「あ、いま自分が発火したな」と思える瞬間を増やしていきたいな、と思っています。

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