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2020年の明暗:意思決定と欲望形成

身体的には停滞を強いられつつも、仕事も含めた生活全般は、激動というにふさわしい変化の一年でした。みなさん、いかがでしたでしょうか。そして、来年はどうなるのでしょうか。

明暗

この一年、厳しい向かい風にさらされた事業もあれば、追い風に押された事業もあります。その違いは、この激動の状況の中で求められ、受け入れられたかどうかではないでしょうか。同時に、求められることと、受け入れられることは同じではないのだと、改めて思い知らされる一年でもありました。とても強く求められながらも、状況として受け入れられることが難しく、厳しい状況に陥ってしまった事業もたくさんあったからです。

とはいえ、結果として明暗を分けたものは、選び選ばれるという状況でした。以前から、使う人が最終的に社会実装の決め手になるということを、書いてきました。

未来像を描き、それを実現しようと様々なサービスやプロダクトを作る人がいます。しかし、作る人がいるだけでは、未来は現実のものにはなりません。それを使う人がいて初めて、社会実装がなされ、その未来は現実のものとなるのです。その意味で、様々なものの明暗は、この最後の社会実装の決め手となる人がいたかどうかに掛かっていると思います。

意思決定と欲望形成

しかし、それは、使う人の意志に委ねられるのかというと、そうとばかりも言えないと思うのです。状況が、それを選ばせること、それを選ばせないこと、を人に影響することがあるからです。

以前、「意志としての未来像」が重要である、ということを書きました。一方で、下記の記事では、意志と努力によって結果をコントロールすることを前提とする社会がもたらす弊害として「病にかかった人が謝罪する社会」というものについて触れました。

どのような未来を望むのか。しかし、その未来は、状況として求めざるを得ないものや、状況として求めてしまうもの、なのかもしれません。能動的ではないこうしたものについて、國分功一郎さんが、中動態として書いておられます。例として、恋に落ちる、という感覚を上げています。相手がいて、その人との関係性の中で、いつしか恋い焦がれてしまう。それは、能動的に「恋しよう」と意思決定するのではなく、まさに状況との間で「恋に落ちる」のです。能動的でも受動的でもない状態です。未来を描くときにも、こうした、描いてしまう未来というものがあるようにも思えます。

上記の記事では、「意思決定」ではなく「欲望形成」という状態が語られています。なるほど、未来を描くということは、まさに「こうなったらいいな」という「欲望」が「形成」される状態の方がしっくり来るのかもしれません。

来年の今頃

新しい一年のはじまり。どのような未来を望むのか、責任を背負う意思決定ではなく、もっと素直に、自らの状況を踏まえた「こうなったらいいな」という「欲望形成」をし、それを実現するために必要なことを始め、必要なものを選んで使うといういのはどうでしょう。共通の欲望を形成した相手との間でサービスやプロダクトが行き来し、その積み重ねが、冒頭の明暗を分けることにつながり、「こうなったらいいな」につながる事業を支え、その未来を現実のものとすることにつながるのかもしれません。

いずれにせよ、未来は、私たちの行動で決まることに変わりはありません。来年、わたしたちは、どのような価値基準で、何を選び、どのような世界をつくっていくのか。

来年の今頃、また一年を振り返るのが楽しみです。

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