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自分らしい始末の良い暮らしを考える。

プラスチックをむやみに使わない日常が進んでいる。ファストフード店やテイクアウトのお店では、木製や紙製、更には自然素材を活用したストローや食器が目立つようになってきた。

こうした動きは以前からもちろんあった。例えば、3年前の記事には、柏崎市のカフェでのササの茎を使ったストローや古新聞で作ったエコバッグの話題が取り上げられていた。麦わらのストローを試していくという計画も載っていた。さらに、間伐材の食器と竹皮の包装材が使われていた上越市の蕎麦屋の話もあった。

どれも単にプラスチックを使わないことに留まらず、何か別のものを作る時に出た捨てるものや、別の用途で作られ使い終わり捨てるものなどを、上手に利用して代替品を作るという創意工夫に溢れる取り組みだ。ただ残念なことに、当時は周りの店に伝播することなく、大きなうねりとはならなかったようだ。

要因は、コスト増や使い心地の変化などに対して、お店側も、消費者もをそれらを乗り越えてでも使いたいというメリットを感じることができなかったことだと思う。当時、多くの消費者や供給者は、消費のタイミングでの満足感や利便性ばかりに目が行き、消費という行為のために捨てられていくゴミの行方にまで、意識を回すことができなかったのだと思う。

ただ、前述の通り、ここにきて価値観が急速に変わっている。地球規模で進めているSDGsの期限が2030年に迫る中、消費者の視野は急速に広がり、地球に優しい取り組みへの参加意欲が高まってきたのだと思う。消費のタイミングでの満足度だけで判断していた消費者は、その消費という行為がもたらす環境への負担にまで頭を回すようになってきたのだ。

もちろん、そうした感覚も日本には古くからあった。関西では「始末の精神」と呼んでいたらしい。資源を無駄使いせず、自然の恵みに感謝し、環境を守り、調和しながら暮らす。これが「始末の精神」の意味合いだ。帳尻を合わせる、うまく終わるように物事を進めるという心がけでもあったという。「始末の精神」は、江戸時代には商家の家訓にも登場していたという。「ケチって縮小均衡を図るのではなく、使うべき場合は投資して事業を長続きさせる、うまく活用して価値を高められるのが始末のいい人だ」とされていた。

さて、容器に関する記事をさらに検索していると、別の創意工夫の事例を見つけることができた。食べられる食器だ。食べられるなら、すぐに崩れてしまうと思いがちだが、コップやストローなど水分が多い食品にも使える食器だという。記事の中では、KITEN TOKYOで、この「食べられるコップ」に入ったケーキを楽しむことができるとある。脇に置かれたスプーンで食べるのだが、そのスプーンすら食べられるという。

この食器は、アサヒビールと丸繁製菓が共同開発したものだが、驚くことに丸繁製菓は2006年から「食べられるトレー」を販売していたという。プラスチックの容器は使い捨て、陶器の容器は洗って何回も使うという常識に、使ったら食べてしまう容器という常識が加わった。なんとも楽しい創意工夫だと感じた。こうした新たな楽しみも「始末の良さ」の好事例と言って良いと思う。

今の世界で本質的に大事なことは「始末の良さ」を楽しく誇りを持って追求する心持ちだと思う。自分が使うプラスチック製の容器や包装材がどのように作られ、それらが使い終わった後にどうなるのか。他の生き物や地球そのものに迷惑を掛けずに、うまく終わるようにするにはどうしたらいいのか。頭を巡らせて考えて行動する。こんな心持ちを持つことが求められている気がする。

供給者は、こうしたものであれば、長く使えるし、使い終わった後に、新たな用途で再利用することもできるといった創意工夫をしていく。消費者はそうした想いにしっかりと応えて、そうしたものを積極的に選んでいく必要があると思う。心に響くものがどこにもなければ、消費者自らがそれを生み出してももちろんいい。供給者も消費者もこうした感覚を当たり前の日常として無意識に進めていくのが理想だ。

プラスチックゴミとは離れてしまうが、幼い頃から母親に「ご飯は残さず食べなさい」と言われてきたのを、ふと思い出した。家でも、レストランでも一緒だ。料理を作ってくれた人を想像し、感謝の気持ちを抱きながら残さずに食べるという習慣だ。いまでも、もちろんお茶碗にご飯の一粒も残さずに食べている。残すと、なんとも申し訳ない気持ちになるので絶対に残さない。これが当たり前の常識だ。

プラスチックゴミ、フードロス。なんでも同じだ。やはり、常に「始末の良さ」を意識して暮らすことが大事だと思う。気持ちにゆとりを持って、視野を広げながら、地球に優しく自分らしい日常を過ごしていきたいと思う。みんなも挑戦してほしい。



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