江戸の離婚「三行半」に関する大きな誤解【江戸03】
© 喜多川歌麿 MET
トップ画像は、仲睦まじい喜多川歌麿の男女の浮世絵ですが、それとは裏腹に、今回は江戸の離婚の話です。江戸時代の日本人の離婚率は世界一高かった、というお話は以前こちらの記事にも書きました。
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今でも多くの人が勘違いしていますが、町人も農民も有配偶率は50%程度で生涯結婚しない未婚者も多かった。一方で、結婚した人は、何度も離婚と再婚を繰り返し、生涯添い遂げるなんていう概念は日本人にはそもそもなかったのです。
明治民法が制定されるまでの日本庶民の結婚観とは、あくまで経済共同体であり、そこに恋だのなんだのなんてものが入り込む余地はあまりなかったんです(あった人もいるでしょうけど)。だからこそ、夫婦共働き(銘々稼ぎと言った)だったし、夫婦別財でした。農民夫婦も、自分たちの農地を耕す協働パートナーであり、子どもたちも貴重な労働力と考えられていたわけです。結婚とは、どちらかと言えば、現在の就職や共同起業に近いと言えるでしょう。
「三行半(みくだりはん)」という言葉があります。
離縁状の俗称で、正式には離別状、あるいは去状(さりじょう)、暇状(いとまじょう)などと言っていました。
この「三行半」についても誤解している人が本当に多いのですが、これは、夫が妻に対して勝手に突き付けるものではありません。離縁というものは、江戸時代でさえ、双方の承諾がなければできませんでした。決して夫だけにその権利があったわけではないのです。そういった誤解の原因は、武士と庶民の生活とを混同していることに起因しているようです。前にも書きましたが、江戸時代人口の9割は庶民であって、武士の生活=日本人の生活ではありません。
また、三行半の機能についても誤解があります。「離縁状」という単一機能ではありません。離縁状でもありながら、実は重要なのは「再婚許可証」としての機能でした。
江戸時代、重婚は重罪です。だからこそ、再婚したいのであれば、その証拠がないとできないのです。夫から妻に出すのが「三行半」で、その離縁状を受けて「返し一礼」なるものを妻から提出。元夫婦ともこれでお互いに再婚許可証を手にすることができ、これにてめでたく?二人の離婚が成立ということです。
夫が一方的に妻に対して「三行半を突き付けた」なんてことはなく、むしろ妻の方から「あんたとはやってらんないから、早いとこ三行半を寄こしてくんな」と要求したものかもしれません。
では、当時の主な離縁の原因とはなんだったのでしょうか?
現存する離縁状を見ると、一番多いのは「我等勝手に付き」というものです。退職願いの「一身上の都合により」みたいなもんでしょう。他には「不縁に付き」という言葉も多い。これは、現代風に言えば「性格の不一致」ということになるのだろうが、離縁状に書かれたことは大抵建前です。なぜなら、前述した通り、これは再婚許可証の役割を果たすので、いちいち本当の理由を正直に書かれても次の相手との間で都合が悪いからです。
そもそも死別も多かったようです。夫の病死の場合もあるし、出産に伴う妻の死の場合もありました。当時、出産は命がけだったんです。この場合は、相手方が死んでいるので、互いの親類などが離縁状を発行していました。
ただ、当然ながら、すべてが円満離婚だったわけではありません。
互いにもめた場合、調停に至ることもあったようです。今で言う離婚調停ですね。現存する史料にそうした当時の離婚調停の記録がたくさん残されています。
それを見ると、夫の経済力や生活力のなさに妻が愛想つかして離婚を訴えたものもあるし、今で言う夫の家庭内暴力(DV)を訴えたものもあります。妻が夫の暴力をただひたすらに耐え忍んで…なんてことは実際の江戸時代にはなかったのかもしれません。また、出稼ぎに行った夫がそのまま失踪してしまい、生活に困窮し、もう待てないから、という理由もありました。当然、浮気に絡む理由もあります。さらに、83歳の夫の介護が嫌で逃げ出した妻もいたそうです。なんだか江戸時代も今もたいして変わりません。
離縁状には、建前として本当の理由を書かないのが普通でしたが、中にはこんなものもありました。
「今後はどこへ嫁いでもかまわないが、隣の家だけは除く」
隣の家の間男と何かあったことがバレバレです。
※参考文献 高木侃「三くだり半 江戸の離婚と女性たち」「三くだり半と縁切寺 江戸の離婚を読みなおす」