アート作品を見る面白さは、アーティストの思考の履歴を見ることー「切売り感」をなくす。
先週、以下の記事を書いたばかりですが、また懲りずにアートについて書きます。ただ、今回はコンテンポラリーアートが中心です。
コンテンポラリーアート作品に接する場の違いから話していきましょう。例えば、「アートフェアとヴェネツィアビエンナーレを同列にして語るのは良くないよね、だって2つは性格が違うから」との共通認識があります。前者がビジネスマーケットであり、後者は文化的指針を示す場である。それを混同してはいけない、というわけです。
そういうことを、日本のアートのイベントがヒストリーに貢献していないと指摘している、次の記事を読みながら思い出しました。
殊にアートフェアを歩いていると、契約している作家の新作を扱っているプライマリー市場をメインとするギャラリーには緊張感があり、他方、セカンダリー市場(再販)を主体とするギャラリーの空間は(ぼくの感覚では)ちょっと色褪せてみえてしまうことがあります。
当然ながら、再版市場に出ている作品は長い期間に渡って広く評価されている証です。だから価格も高い。しかしながら、どこか他人のふんどしで相撲をとっているようなシーンを見せつけられているような気になることがあるのです。
それに対し、プライマリー市場のギャラリーは自らアーティストに投資し、アーティストと共に新しい世界観をつくっていく、言ってみれば、リスクをとるがゆえの華があります。だから、作品を見歩く立場としては、ワクワク感を抱くのです。
さらに、まったく新しい世界観に接近していく楽しさや知的好奇心の所在に気づき、逆に、ある場合には危険な匂いに躊躇してしまうのが、ヴェネツィアビエンナーレのような類のイベントなのだろうと思います。アートフェアのプライマリー市場向けギャラリーとヴェネツィアビエンナーレのようなところに目を光らせるのが良い、と(オークションハウスの広報記事に振り回されないことも同様に心がけるべき)。
もちろん、大きなインスタレーション作品のように、住居の中での展示の可能性など視野に入っておらず、アートフェアでの「やっぱり、壁にかけられる二次元の表現に限るよね」との諦めともつかぬ(?)台詞とは無縁なわけです。少なくとも、将来展示されるのは公共の美術館などを想定します。
だからこそ、これまでにない見方なり視点を提供し、かつアートヒストリーに新しい1ページを加えているか?との点が重要です。そのとき、コンテンポラリーアートであれば、地域性という要素は相対的に下り、世界のアートヒストリーを範囲としていきます。
1990年代に出てきた東欧革命以降にあった東欧のアーティストの社会表現、今世紀になってからの中国のアーティストの表現は、それまでのアートヒストリーには要素として欠けていたが為に歓迎されたのだと思います。
あるいは、今世紀にはいってからのアフリカのアーティスト、女性アーティストへの注目も、貧弱だった分野のアートヒストリーを豊かにするに貢献してくれるのでしょう。
とすると、ひとつ問いが浮かんできます。
ギャラリーであればセカンダリー市場向けの作品としてやや興ざめするのに、評価のある同じアーティストの作品を美術館で鑑賞するととても良かったりします。存在感に差がでます。
経済的価値が絡んでくるからでしょうか?
ぼくが経験した範囲で言うと、経済的価値が分かると作品が面白く見えることもあります。イタリアのある銀行が保有している中世から現代までの膨大なコレクションの売却案件に関与した際、ミラノの教会の壁にかかっている絵画の経済的価値が想像でき、俄然、興味をもてたことがあります。
それゆえに、作品の値段が白けさせるのではなく、評価の定まった「点としての作品」の選び方に「切り売り感」をもつのかな?と思うのです。
例えば、日本の地方都市にある美術館でフランス印象派の絵画が文脈なく一点だけ展示されている場合も似たような感じがするので、きっとそうなのでしょう。
コンテンポラリーアート作品を見る面白さは、アーティストの思考の履歴、アーティストのアートヒストリーとの関わり、これらが見えてくることだとぼくは考えます。どのコンテクストにのっているか?はあらゆる観点で鍵になるのです。
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この週末、横浜で東京現代というアートフェアが開催されていた為に、上記の森美術館の片岡館長へのインタビュー記事が掲載されたのかと想像しながら文章を読んだのですが、「日本推し」を戒めている点に賛成です。
写真©Ken Anzai
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