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「inclusiveな公」にアップデートするために対話しよう 〜千葉県警のVtuber問題に考える、「公」の排除性

お疲れさまです。uni'que若宮です。

最近、「公」のもつ排除性についてちょっとモヤモヤしているので、今日はちょっと改めて「公」について考えてみたいと思います。


千葉県警Vtuber問題

先日、千葉県警の広報動画に使われたVtuberのキャラクターが「性的対象物」として女性を扱っている、という抗議を受け、当該動画が削除される、というニュースがありました。

この発端となった全国フェミニスト議員連盟の「抗議」に対しては、多くの批判がよせられました。

7月中旬に公開されたこの動画は、自転車の交通ルールを呼びかける内容の動画だったが、議連は「おへそが見えている」「動くと胸が揺れる」「スカートの丈が短い」という戸定梨香の外見部分を取り上げ、「女性蔑視にあたる」などと指摘。ところが、この抗議はあまりにも見当外れだと逆に批判の声がネットを中心に集まった。

僕自身も、この「抗議」は明らかな行き過ぎではないかと考えています。理由は

①キャラクターの表現に「伝えたいメッセージ」と関係ない、あるいはそれを邪魔するような「性的魅力の強調や喚起」があるわけではない
②「へそ出し」や「スカートの丈」を「女性蔑視」とつなげる(女子校の校則のような古い感覚の)「露出=性的」というステロタイプな決めつけはかえって、女性の服装の自由度を狭めてしまう

というのがその理由です。①についてはたしかに、伝えるべきメッセージに関係ないことで身体的な特徴をあげつらったり、過度に強調することは問題がある場合もあると考えます。↓の事例のように不用意に「ハゲ」をネタとして使ったり「宇崎ちゃん」のような性的特徴でのアピールは、(ハゲはいじっていい、女性は巨乳のほうがいい、といったような)差別的な視線や価値観したり、無反省な消費を強化する可能性もあります。だからダメ。絶対。とはいい切れませんが、たとえ用いられるにしても慎重なコミュニケーションの検討とスキルが必要だと思います。

ただ、今回のキャラクターはそのような過度な強調意図やそれによる差別強化・消費が起こるおそれはあまり無い気がします。「おへそが見えている」「動くと胸が揺れる」「スカートの丈が短い」と指摘されていますが、おへそが見えていると性的なのか、胸が全くゆれなかったらいいのか、スカートの丈が長かったら問題ないのか?と考えると、これを「性的対象」とくくるのは、むしろ相当にステロタイプのバイアスではという気がします。(茶髪は遊んでる、2ブロックは不良に絡まれる、くらいの)

100歩譲って「性的対象」だからではなく、「いまどき女子学生のファッションとしてセーラー服的なのはステロタイプすぎるのでスラックスのバージョンも出してはどうか?」とか「若くて見た目のいいキャラクターだけを使うのは若さ信仰やルッキズムを強化するのでもっと多様なバージョンもほしい」とかならまだわかります。でもそれにしても、世のドラマやマンガの主役ではそこまでのダイバーシティが担保されてはいないし、一キャラクターの表現として特別アウトかというとさすがに絡みすぎではないか、という気がします。(むしろ個人的には『ワンピース』のとても・男性目線の・女性キャラがいまの時代に「少年マンガ誌」に載っているのとか、エヴァ劇中で下着姿のアスカを無駄に下からのアングルで撮るのとかの方が、無邪気すぎてヤバいと思うし、悪影響だと思います…)


「公」の責任とはなにか

これに対し、全国フェミニスト議連は以下のような声明を出しました。

千葉県警等に提出した抗議ならびに公開質問状にご関心をお寄せいただいた皆さまへ
提出した文書は、公的機関としての認識を問うたものです。
当該動画の掲載も、削除も、ともに千葉県警によるものです。
現在、多数のメール等が多種の内容で寄せられており、個別に回答は致しかねます。悪しからずご了承ください。(強調は引用者による)

つまりこの回答の主旨は、

①「公的機関としてどなの?」と聞いた
②聞いただだけなので、動画をどうしたにせよ、それは千葉県警の判断

というものなのですね。

僕がこの回答文を読んで一番気になったのは、「公的」なんだからダメ、という強いニュアンスです。

先程述べたようにいくら「表現の自由」といっても、差別を強化するものはだめですし、何でもかんでも許されるものではありません。ただ、そうで限りは主観の範囲でのブレは一定許容されるべきだと思います。もしかすると「へそは性器と同等。人に見せるものではない」という方や「ニーハイのソックスは性の象徴だ」という人もいるかもしれません。ただそれをもって「BAN」するほど悪いか、というのはかなり難しいと思います。

なのでここで考えてみたいのは、「コンテンツや表現自体」の正悪ではなく、民間ならOKだが「公的」にはNG、なのはなぜなのだろう、ということです。考えられそうなのは、

・みんなの税金(公的資金)をつかっているのにへそを出させるとはけしからん
・みんなに見られる場所(公共空間)なのにへそを出させるとはけしからん
・みんなのお手本になるべき人たち(公務)がへそを出させるとはけしからん

というあたりでしょうか。いずれにしても「公的機関としての認識を問うた」というように「千葉県警」が「公」であるからこそ「民」にはない責任が生じる、という考えが「抗議」の根拠であった、いうことです。

そしてこの「公」=「みんなの」というのがちょっと気になっています。


「みんなの」が排除するもの

もう一つ「公」でいうと、こういうのもありました。

世田谷区の「公園」でなにもかもが禁止されてしまった、という件です。

先の抗議文も含め、日本の「公」の狭量さ(もともとあった気はしますが…)は近年さらに強まっているように思います。新幹線で子供が泣けば「みんなの迷惑考えろよ!」と罵られ、子供の時から「みんながいる場所ではいい子にね」と育てられる。

結果として「みんなの」というのは「みんなが(それぞれが)自由にできる」というような開かれた意味ではなく、「みんなに(誰にも)迷惑をかけない」というネガティブチェックになってしまっている気がします。

以前、アート思考のワークショップで『みんなの場所』という作品をつくったことがあります。

誰でも入れる場所に簡単にロープで仕切りをし、そこを『みんなの場所』と名付けました。その空間の周囲には、上からテグスでたくさんのプレートが吊るされていて、「未就学児お断り」や「タトゥーお断り」など、禁止のサインがプリントされています。中には「巨人ファンお断り」のようなものから「車椅子の方お断り」、そして「◯◯人お断り」のような差別に近いようなものもあるのですが、これらのサインは実はインターネットで見つけた実在のもので、実際に飲食店や公園のような公共の場所に掲げられているものです。

皮肉なのは、それぞれの看板のほとんどが、あくまで「善意」でつくられたものだということです。それは中にいる人や利用者の「内側in」の安全を担保するために、異物や危険性を「排除ex」するために設置されます。つまりそれは「みんなのため」になされているのです。

しかし「みんなのため」がたくさん集まると「みんな」を排除していくことになります。もはや公園で何ができるん、、、となったように、結果として皮肉にも誰も入れない『みんなの場所』が出来上がってしまう。

ダイバーシティを考える時には、Inclusionつまり「受け入れる」ということがセットです。しかし「みんなのため」という言葉はしばしばみんなを受け入れるどころかexclusion「排除する」ことになってしまってしまうのです。なぜでしょうか?


「公」をアップデートしよう

「みんなの」という時、日本語では「公」と「共」という言葉があります。

そして「公」にはある種の二義性があります。ひとつは「public」。「公衆」というようにこれは「みんなのため」という意味です。しかし一方「公」には「official」=「正式な」という意味もあります。officialな「公」は、ハレとケのハレであり、日常生活とは切り離されたexclusiveな空間です。

「おおやけ」という言葉は「大宅」すなわち「おおきな家」として「政府」を指したともいいます。こうした「公」は封建制度においては必ずしも「みんなのため」ではありません。税金も「みんなのお金」を集めて「みんなのため」に使う、というよりは、「支配者のため」の「年貢」として「取り立てられた」。

時代は変わり、今では税金の「年貢」的な側面は薄まりました。「公的資金」という意味はほとんどの人が「みんなのためのお金」という意味で受け取っているでしょう。しかしそれでもそこにはofficialとしての「公」のもつ、exclusiveな傾向が残っている。


都心の狭小住宅では子供が家で十分に遊ぶことはできません。いろいろな家庭環境があったり家に居場所がないケースもあります。そういう「個の家ではできないこと」を受け止める場として「みんなのための公園」がある。こうした発想は、「公」園というよりはもうすこしコモンズ的な「共」園とでも呼ぶべきものかもしれませんが、「みんなに迷惑をかけない」の方が先にきてしまう。


主催国の日本は多様性の尊重が進むのか。残念ながら東京の街中で五輪・パラで見た多様性はめったに見られない。国民の7.6%とされる障害者の姿も少ない。海外では重度障害者や生後間もない赤ちゃんを連れた夫婦、介護が必要な高齢者などを日常的に目にしたが、東京ではそのような人の多くは施設や自宅にこもりがちな生活を余儀なくされているのだろう

これはまさに排除的な「公」を志向してはいないでしょうか?

(僕はこうしたものを絶対に「アート」とは呼びたくないのですが)「排除アート」が増え、見た目だけキレイにされた(ジェントリフィケーション)まちの中で、居場所を失っている人がいます。


これはけっして簡単に「善悪」で片付けられる問題ではありません。さきほどの『みんなの場所』が「善意の看板によって生まれた結界」であったように、たとえば小さな子供がいる時に、ホームレスや反社会的な風貌の方が隣の席にくると、さっと身構えてしまう、というのは誰しもが経験することなのではと思います。

しかしだからといって、ただそうしたリスクやクレーム要因を排除していったまちは、あまりに閉塞的になるのではないでしょうか?

diversityやinclusionというのは、時に「快適さ」や「効率性」とは反します。快適さや効率性だけを求めると人は異質なものを切り捨ててしまうからです。「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」のではなく、「異文化やマイノリティーなど色々な立場の人がたくさん入っている社会の議論はじっくりできる」のです。


冒頭の千葉県警の件で言えば、こうした抗議があったとしても、千葉県警は「事なかれ」的に削除してしまうのではなく、ちゃんと抗弁したり、議連の指摘のポイントを丁寧に議論をして別バージョンをつくったり、パブリック(の方の公)に意見を問うてみるなど、「対話」というアクションをとることができたのではないでしょうか。

そしてそうした「対話」なしには「公」はますます排除的で減点方式の無味乾燥なものになってしまい、そこからは多様性は失われてしまうという気がしています。

(あいちトリエンナーレの時に公金を使うべきか、という議論が起こったように、「公」という言葉はしばしば、全員の、あるいは多数派の利益あるいは同意に基づくべきである、というように使われ、それに適わないものを切り捨てがちたりします。しかし「公」だからこそ商業的にはサポート不可能な長期視点での文化施策やマイノリティのセーフティネットとして機能できる、というのはまさに「公」の存在意義です)

さきほどの児玉治美さんの記事はこう続きます。

東京2020が目指した「誰もが生きやすい社会」の実現には、どんな人も外出しやすい街づくりを加速させる必要がある。解決策を「お上」に任せず、公共の場で子どもが騒いでも、意思の疎通が容易ではない人がいても、思いやりを持って助けの手を差し伸べるなど一人一人の行動を変えていくことも大事だ。

「公」はもう「お上」だけが管理する「大宅」ではないはずです。公園のあり方含め、リスクを短絡的に「排除」するのではなく、議論の上で許容するような場所ができはしないか。自宅や個人のスペースでは生きづらい人、抱えているつらさをむしろそこでは解放できるような「Inclusiveな公」を考えていくことはできないか。

先に述べたようにそうした「公」を考えることは(少なくとも短期的には)必ずしもconfortableではありません。しかし、多数派の快適さのために少数派を切り捨て、漂白されたノーリスクを選ぶ社会は息苦しく、綱渡りのように不安な社会のように僕には思えます。すこし時間や手間はかかるかもしれないけれども生活者として私たちが対話し、自分だけの都合で排除せず余白や寛容性をもつ「Inclusiveな公」へとアップデートする意識が大事なのではないかと考えています。

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