統治をめぐる思考の欠如 ー日本を滅ぼす宿痾
なかなか進まないワクチン接種。政治における強力な指導力の欠如。台湾周辺や尖閣諸島をめぐる危機が迫りながらも、十分な防衛態勢が構築できていないもどかしさ。
そして、気がついたら、日本の国際的な位置づけが大きく変わっている。
半導体の先端技術における国際競争での敗北、ワクチン開発競争での無力感、そしてデジタル化の大幅な遅れ。
日本経済がまだ強く、日本の技術力が世界から賞賛され、また怖れられていた1990年代の時代を濃厚に記憶する世代にとって、現状における日本の停滞は、なかなかうまく理解することも、その事実を受け入れることも、難しいのでないでしょうか。
なぜこうなってしまったのか?
なぜ日本は衰退したのか?
よく分からないうちに、日本の技術力が大きく後退し、国際競争力が失われ、日本発のイノベーションがほとんどなくなってしまった、というのが現状だと思います。
もちろん、過度な楽観主義同様に、過度な悲観主義もわれわれは避けるべきでしょう。1990年代に日本の競争力が強かったひとつの原因として、人口動態が考えられます。すなわち、この時代はちょうど、第1次ベビーブームの世代が退職前で、その子供の世代の第2次ベビーブームがちょうど就職した頃だった。この二つの世代が、「24時間戦えますか」という言葉の通り、生産性の低さを補う生産時間の長さによって、日本経済の活力を支えていた。それはその前の時代とも、その後の時代とも異なり、単純に労働力と生産時間の量的な規模の大きさによって、日本経済の量的な大きさを規定していた。
なので、いまや急速に高齢化と、生産年齢人口の縮小が続くゆえに、より小さな労働力で、より大きな人口を支えねばならないので、経済規模も、一人当たりのGDPも縮小するのは、ある意味では予想通りであり、やむを得ぬことなのかもしれません。ただし、それ自体は、イノベーションの後退や、日本の世界大学ランキングの後退など、必ずしもすべてを説明できるわけではないのでしょう。やはり、何かが変わってきている。
そこでもうひとつの問いが浮かび上がります。日本はなぜ、こうも急転する状況の変化の中で、危機に直面したときに適切な対応ができないのか?
それは、太平洋戦争勃発に至る時代もしかり、湾岸戦争もしかり、地下鉄オウムサリン事件も、阪神大震災も、東日本大震災も、そして現在のコロナ危機も同様。またか、という既視感に襲われて、また本来救えた命、本来失われるはずのなかった財産や利益が、次々と失われていく。むしろこれは、変化というよりは、戦前から戦後まで続く、日本で持続している問題かもしれません。
「コンスティチューション」なき日本
これには、いくつかの明確な日本が長年抱えてきた宿痾が見られるのではないか、と最近は考えるようになりました。すべては、そこに帰着する。それは何かというと、日本という国家を支える国家体制、英語でいうところの、「コンスティチューション」を、われわれがあまりにも考えてこなかったことです。すなわち、日本の国力と活力を最大限に引き出し、国際競争力を支え、さらには日本国民の安全と日本という国家の安定を支える体制が、どのようなものが好ましいのか、という国民的なコンセンサスの不在であり、またそれを主体的に構築して、さらには時代に合わせて柔軟に改変していく叡智です。
そのことを端的に示すのが、「コンスティチューション」という英語に符合する日本語の用語がない。ですので、たとえば、イギリスのジャーナリストで思想家であった、ウォルター・バジョットが記した古典的名著のThe English Constitutionについても、適切な訳語がない。なので、中央公論新社から刊行されているその訳書は、『イギリス憲政論』となっています。「憲政論」とは、必ずしも日本語で定着している言葉ではなく、馴染みのないものです。なぜなじみがないかというと、そもそも日本人がこれまで、日本のあるべき「コンスティチューション」を考えてこなかったから、その訳語が必要なかったのかも知れません。言い換えれば、「コンスティチューション」という英語に符合する、日本語での概念が存在しなければ、そもそもそれを思考することもできない。
一つ注意すべき点は、「コンスティチューション」と「コンスティチューショナル・ロー」は異なります。後者は、「憲法」と訳します。どのような「コンスティチューション」が望ましいのかを成文法で規定することで、われわれはその認識を共有できる。いわば、日本国憲法における統治機構の規定がそれにあたります。他方で、「コンスティチューション」というのは、それにとどまるものではありません。その精神や、伝統、構造などを包摂する、より抽象的なものといえるかもしれません。
日本の国家がどのような「コンスティチューション」であるべきか。これは国家にとって、もっとも重要なことです。
戦前の日本においてはしばしば、「国体」という言葉が使われており、全く同義とはいえませんが、おおよそ重なる言葉がそれになりました。戦前における「国体」とは、多くの場合に、天皇主権の国家であったので、それが「天皇」を意味していました。
そして、戦争の終結とともに、「象徴天皇制」という思想の導入によって、そもそもわれわれが自ら、主体的に、「コンスティチューション」を考える必要を捨ててしまったのかも知れません。つまりは、日本国民は、敗戦によって、大日本帝国の崩壊とともに、自らにとって最も重要なことでもある、日本という国家における統治をめぐる思考、すなわち「コンスティチューション」をめぐる共通認識や、その精神さえも放棄ししてしまったのかもしれません。
敗戦ともに日本は「国体」という思想を捨て、また主体的に「コンスティチューション」を創る意志を持たず、いわばクラゲのような骨格をもたない国家に、なってしまったのかもしれません。
全体を俯瞰する重要性
そもそも、日本人は教育において、全体を俯瞰することの大切さを教えてもらっていない。教科ごとにやるべき作業が分けられていて(縦割り)、そしてそれらを計画的に、周到に、緻密に作業を行うことを、日本の初等教育や中等教育、いや、高等教育においても求めているのではないでしょうか。それらは、指導者に求められる資質とは多少異なります。
指導者は全体を俯瞰して、優先順位を決めて、いってい程度の犠牲をやむを得ぬことと判断して、環境の変化に応じて臨機応変に柔軟に対処することが求められています。子供の頃からそのような思考に慣れていないのだから、特定の組織の指導者になったときにそのような資質を求められても、しょうがない、というのでしょう。
そのような全体を俯瞰すること、そして優先順位をつけて選択と集中をするということを、おそらく日本の教育は重視してこなかった。なので、マイクロマネージメントが得意な日本は、タイタニックのように、目の前に危険な「巨大な氷山」が現れたときに、迅速かつ効率的に舵を切って、危機を回避することができないのかもしれないですね。いうまでもなく、ここでいう危険な「巨大な氷山」とは、福島原発事故や現在のコロナ禍のような、想定外のリスクや危機を意味します。
そのような、日本社会に持続する問題の本質を、日経新聞コメンテーターであり、外交や安保に精通した秋田浩之さんの記事で、見事に抽出しています。すなわち、コロナ対策での閉塞状況と、戦前の日本が戦争の道を進み挫折したことの共通点を、「明確な優先順位なき戦略」、「縦割り組織の弊害」、「根拠なき楽観思考」の三つの要因をもとに論じており、首肯できるものばかりです。
情緒へのアピールではなく、冷静で強靱な論理と戦略を備えよ
そもそも日本の新聞じたいが、読者の感情に訴えるような、情緒的、表層的、短絡的な主張を掲載する傾向が強いように思えます。ですので、ここで紹介する秋田さんのコラムのように、長い歴史的な視野、そして国際的な比較のなかから、日本における問題の核心に冷静かつ現実的にに迫ろうとする視点はとても価値があります。是非、こういったコラムが書ける記者が多くなってもらいたと思いますし、そのような記者を多く育ててほしいと思っています。
「新聞記者」を名乗って、特定の一面的で過剰な正義感を掲げて暴走して、目の前の目標に力任せで全力で突進することは、一部の読者は喜ぶかも知れませんが、多くの場合において読者を間違った方向に誘う可能性が大きい。情緒に任せて世論が暴走してしまうかもしれないというリスクを、もっと冷静に見つめてほしいと思っています。政治家は国民を間違った方向に導けば選挙などで信が問われます。だが、メディアは国民を間違った方向に導いても信が問われません。政治に無責任が多いとしたら、メディアにはより多くの無責任が見られるとして、このように考えれば、やむを得ないのかもしれません。
たとえば、現在のコロナ禍はいわば、「有事」ともいえるような非常事態であり、従来よりも踏み込んだかたちで、政府に権力を集中させることが不可欠です。権力(パワー)とは何かを実行するために必要なものであって、それがなければそもそも危機や困難を乗り越えるのは困難です。権力(パワー)は価値中立的であって、それ自体に価値があるというよりも、むしろ特定の価値や目的に基づいて行動するさいの実現可能性を高めるリソースにすぎません。
ですので、戦争や感染症の拡大など、国民の生命や安全が脅かされる深刻な危機の中で、政府はそれを放置して国民に行動の自由を保障して、不作為を続けるのではなくて、「苦い薬」でも国民にそれを受け入れる必要を説得して、権力(パワー)を強大化させて、必要な措置を敢行することが求められます。アメリカの歴史でも、フランクリン・ルーズベルト大統領や、リンドン・ジョンソン大統領のように、むしろ左派リベラルの民主党政権こそ、そのような政府の権力を拡大する必要をいてきた。むしろ近年は、保守の側の共和党政権で、「小さな政府」を掲げて、民間の活力に多くを委ねることを希望しています。
ワクチン接種で、医師が不足して協力が十分に得られないとき、しょうがなかった、ではすみません。それはまさに、危機における統治機構の問題であり、国家体制の欠陥であり、至急それを修繕することが必要です。
たとえば今日の時点で世界の死者数は344万人、感染者数は1.66億人となっています。政府の不作為が、救えるはずの人命を救えず、また国民に不必要な制約や困難を経験させることになります。たとえば、ワクチン接種は各都道府県に権限を委ね、各都道府県も医師会など実際に接種をする医師の意向に委ねているだけでは、動くべきものも動きません。
官邸や内閣からすれば、自らはその権限がないのだから、都道府県に「お願い」することしかできない。これは政府の失策である以上に、過剰に「平和主義」と「人権」、「民主主義」を絶対することで、「有事」を前提とした統治が法的に困難であり、また私権を制限するような法制化にも動かない。
「まさかこんなことになるとは思わなかった」ではすまされない
日本の敗戦。石油危機。湾岸戦争。オウム・サリン事件。福島原発事故。そして現在のコロナ禍。「まさかこんなんことになるとは思わなかった」というのは、これまで繰り返し聞かされてきたことです。1995年の阪神大震災のときには、当時の連立政権で社会党出身の村山富市首相が、適切な対応ができず、次のように自らの著書で回顧しています。
「『危機管理の体制に欠けていた』と、いかように責任を追及されても、弁明できない。お詫びをして反省する以外にない」(ベストセラーズ、1996年)
他方で、現在のコロナ禍の中でも、イスラエルや台湾、アメリカ、イギリスなど、政府が失策を見せることもありますが、それぞれ中央政府に権力を集中させて、コロナ対策や、ワクチン開発を、例外的な効率と速度で進めてきました。
秋田氏のコラムでは、次のように他国の状況が紹介されています。「日ごろから準有事にあるイスラエルでは、ワクチンの確保に軍が動いた。同様の台湾では、携帯電話の情報から感染者の行動を追跡するシステムもある。」イスラエルも、台湾も、いずれもつねに安全保障上の脅威を感じるなかで、死活的に重要となる国民の生命、安全、福祉を守るために、国家がそれ以前よりも大きな権限をもって、必要な措置をとることが自明となっている。つまりは、今回のコロナ禍での政府の行動の制約や、ワクチン接種の対応の遅さなど、そもそも国家体制、あるいは統治の問題こそが深刻なのであって、そのような制約が限界の中で、政治指導者は必要な措置をとらなければならない。大変な仕事です。
軍事力は悪であるから使いたくない。法律に基づく権限では、そのようなことはできない。訴訟リスクがある以上、現段階ではそのような決断はとれない。そういった、無数の不作為によって人命が奪われる。
そして、日本の国際的地位が低下して、技術力や産業競争力が失われる。はたしてこのまま、われわれはそれを静観し続けるのでしょうか。
そして、そもそもわれわれは日本をどのような国にしたいのでしょうか。いわば、どのような「国のかたち」、いわゆる日本の「コンスチィチューション」をどのように自らの意志と決断で、つくっていき、時代の要請に応えて変えていくのでしょうか。
「コンスティチューション」を規定する法、すなわち憲法を改正することそれ自体を「悪」とみなし、それを検討することさえも「正義」を傷つけることとみなす論者が多い中で、引き続き日本国民はこの問題から目をそらし、国民が無数の不利益を被り続けるのかも知れません。
戦前に「軍国主義」と「国家主義」によって国が滅びたと考える日本。戦後は、今度は、過重な「平和主義」と「民主主義」を完全な「正義」と掲げ、これまでの国家体制を時代にあわせて柔軟に変えて行くことから逃げ続けることが、そのような日本の衰退を加速させることになることにそろそろ気がついた方がよいほど、現実は深刻な状況にあることに気がつくべきではないでしょうか。
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