カーボンニュートラル時代の2つの未来シナリオ: SDGsのその先にある分かれ道
(Photo by Karsten Winegeart on Unsplash)
日本中のビジネスが、SDGsに向かい始めている。無限の資源を前提とした資本主義経済に対して、私たちはどんな持続可能な未来を生み出せるのだろうか。
ドライビングフォース
未来シナリオを生み出すために、まず必要なことが、ドライビングフォース(変化の兆し)を集めることだ。
次の記事は、コロナ禍の中、世界中で起業が増えているという記事だ。特に都市部よりも地方での起業が増えている、という「変化の兆し」に注目したい。
日本が国として、2050年のカーボンニュートラル達成の宣言をしたことは、ほんとうに大きなことだった。今まででは考えられなかった方法、例えば次の記事は「ふるさと納税で再エネ電気が返礼品」という、ユニークなアイデアが実現されたことを報じている。以前は国が決して認めなかった返礼品のようだが、2050年に向けたCO2削減の大きな波は、次々とカーボンニュートラルにつながる事業の後押しを生み出している。
一方で、シンギュラリティまで行かなくとも、ドローンや人工知能で、再エネルギーを管理しようという動きもある。つまり、私たちの「サステナブルな行動」は、「社会的な全体最適」の旗印のもと、監視、管理される可能性を示唆している。
分かれ道
未来シナリオは、通常は2つのドライビングフォースを選び、4つの未来シナリオを描写する。だがここでは単純化のために、1つのドライビングフォースを選んで、2つの未来シナリオを描写してみたい。
それは、「社会課題解決」が、「AI管理によって実現」←→「責任ある市民によって実現」という分かれ道である。それによって、「AI管理シナリオ」と「責任ある市民シナリオ」の2つのシナリオが描き出される。
両シナリオとも、カーボンニュートラルを含めSDGsに挙げられているような「社会課題解決」は、実現する方向にあるというのが前提となる。しかし、その実現のアプローチがまったく異なる。そのため社会の未来像、特にその社会で私たちは何を幸福と感じるかを具体的に比較検証する必要があるだろう。
シナリオ1:「AI管理シナリオ」
この社会は、社会課題解決のアジェンダをグローバルに共有することに成功している。まさに国連の勝利のように見えるシナリオである。しかし、現実には、世界中の市民はAIに厳しく行動を管理されている。もちろん今までも貨幣経済という制約の中で、私たちは生きてきた。その制約として、さらにサステナビリティの順守というものが加わっただけ、とも見ることができる。
多くのサステナビリティ実現をめざして活動してきたアクティビストたちは、このシナリオの実現をいっときは喜ぶかもしれない。しかし、この世界で生きていく私たちにとって、幸福とは、ただ社会課題の生み出されない世界で生きることなのだろうか、という疑問が湧いてくるかもしれない。社会システムがサステナブルであれば、私たち一人ひとりの行動は、AIに管理され、制約があっても、その与えられた範囲で自由を謳歌すればよいのだろうか。
シナリオ2:「責任ある市民シナリオ」
「社会システムを賢くする」シナリオ1に対して、もう一つのシナリオは「市民が賢くなる」シナリオである。一人ひとりが「どう生きるか」を考え、ちょっと面倒かもしれないが、「全体最適での管理」ではなく「部分最適を対話によって乗り越えていく」という不断のプロセスが必要な世界である。
このような世界が本当に成り立つのか、人類はもっと自分勝手な存在ではないか、という反論は当然あるだろう。一部の自分勝手な存在をルールで縛らない限り、国際秩序は乱れてしまい、シナリオ2は成立しないと考える人も多いだろう。
しかし、この分かれ道の選択を「いまできるかどうか」でしてしまってよいのだろうか。この先、社会システム最適のルールを一度つくってしまえば、二度と私たちは主体性を取り戻すことができなくなるかもしれない。責任ある市民シナリオを理想と考えるならば、「どうしたら、私たちは責任ある市民シナリオを実現できるのか?」と考えていく必要がある。
SDGs、カーボンニュートラルに国を挙げて、さらには世界が協調して向かっていこうというこのタイミングで、私たちはAI管理を選ぶのか、責任ある市民への道を選ぶのか、じっくりと対話する必要のあるタイミングではないだろうか。