それでも僕は、国葬に参列する
これ程、複雑な感情を持って迎える葬儀があるだろうか
2ヶ月前に選挙演説中に凶弾に倒れた元総理に国民が弔意を示す儀式に国民の世論の6割が、反対している。
報道で様々な論点が示されているが、多くが最初に親安倍か反安倍かのポジションがあって論旨を展開しているので、論点が錯綜している。
①国葬そのものに反対なのか、
②閣議決定で国葬を決めたプロセスに反対なのか、
③それとも、安倍元総理の功績が国葬に値しない、もしくは評価が定まっていないため相応しいか判断できないから反対なのか、
どの観点から反対なのか、明確でないままに「安倍国葬反対」というムードの中、本日国葬が営まれる。
冷静に頭を整理して考えたい。
①国葬という存在そのものに反対なのか
そもそも、当初政府は内閣・自民党合同葬での葬儀を考えていたという。それを「理屈じゃねえんだよ」と強い口調で覆させたのが、麻生元総理とされている。
国葬は、憲法14条「法の下の平等」や憲法19条の「思想及び良心の自由」を侵害する憲法違反とする共産党を中心とする意見だ。
国葬は国民主権に反する、戦前に回帰するのか、少なくとも国葬妥当の客観的な根拠がないなら、平等原則に反するとする。
日本人には、戦前の神道と一体となった国家にトラウマがあり、戦後は、平和国家として政治と宗教はできるだけ分離させてきた。皇室以外での国葬という言葉で浮かぶのは、山本五十六、東郷平八郎、山縣有朋等、軍人だ。
国民が主権での民主主義国家においては、これまでも国葬の対象者の妥当性は常に国民の議論になり時に国論を2分する可能性があるのは日本に限ったことではない。
各国、事前にある種のルールを決めている。
例えば、韓国は国家葬として明確に明文化している。
イギリスの場合は、君主以外にも議会が「類いまれな国への功績がある」と承認した功労者も国葬が行われる。万有引力の法則を発見したニュートン(1727年)、ナポレオンのフランス海軍を破った提督ネルソン(1806年)などがいる。直近では、第2次大戦を勝利に導いたチャーチル元首相の国葬が1965年にあった。サッチャーは、生前に国葬の打診があったが、「国葬は国論を二分する」「適切ではない」と自ら辞退して儀礼葬とされた。ディズレーリ元首相も辞退したという。儀礼葬であれば、議会で国の意志の承認を経ずとも君主である女王が推挙すれば実施可能だ。エリザベス女王の国葬に見るように、キリスト教の宗教色と歴史と文化の伝統の色彩の強いものだ。それらを見て大英帝国の威信と権威のソフトパワーを世界中の人が再確認する。
フランスでは、大統領が国葬対象者となるが、シラク大統領以外の、ミッテランやジスカール・デスタン等大統領経験者は、これまで辞退してきたという。
アメリカは、国葬を規定する法律はないが、慣習として軍が取り仕切る形で行われている。これは、国葬対象者が現職大統領か大統領経験者で、軍の最高司令官(Commander in Chief)だからだろう。「国葬は、伝統的に国家元首のために設けられている国家からの賛辞」と軍のホームページで説明されている。
(日本で法的根拠無く、自衛隊が「慣習として」国葬を仕切っている事を想像してみてほしい。それも「国民が認めれば」可能ということだ。)
ここで大事なポイントは、イギリス以外は、共和制で大統領そのものが元首として統合の象徴でもあることだ。日本においても、天皇の崩御に伴う大喪の礼等は、法律で定められている。
民主主義国家で、明確な元首でない政治家の国葬を真面目に議論すると、今の日本の様な分断の状況にしかならない。故人や遺族も不幸になり国民の純粋な弔意の気持ちも徐々に失われてしまいがちだ。
各国、形式は国柄によって異なるが国民を代表する議会が提案し個人が判断する(イギリス)、軍の慣例として執り行う(アメリカ)、国葬を提案し国家として弔意と敬意を示しつつも個人の判断に委ねる(フランス)、死者を巡って分断が起きないように、工夫している。
国家に功績があった人物の死を追悼する国葬は世界各国において存在し、日本においても戦前の記憶など関係なく、本来存在して良いと思う。
②閣議決定で国葬を決めたプロセスに反対なのか
但し、国葬が国民としての弔意を示す場である以上、開催において国民の意志の確認が不可欠だ。
岸田総理は今回この重要な1点を、甘く見て見誤った。
内閣府設置法によって「国の儀式」を内閣が実施できると認められていることから、国の儀式国葬も内閣が閣議決定できるとしているがこれは法的根拠とは呼べない。これは、財務省設置法によって国税庁の所掌が「国税に関する事務」と定められていても、課税には税法が必要となることと同じだ。
国葬に際して立法府の衆院法制局の答弁集では「意思決定過程に国会(与党及び野党)が『関与』することが求められる」としている。これに対して内閣法制局は、設置法を根拠に「国の儀式」について首相から聞かれたとして、衆院の答弁集の国の意志の確認が必要とした「国葬」と、内閣閣議決定で決めた「国葬儀」とは別としている。極めて法的に微妙なやり取りだが、立法府の法制局の「国葬」の考え方は無視され、内閣法制局の解釈による「国葬儀」が行われる。(衆院法制局の橘局長は激怒している)国民の意志である国会の法制局の「国葬」についての見解が無視され、内閣の「国葬儀」の話にすり替えられて閣議決定で進められる。
法的にはかなりグレーだが、法的根拠が全く無いとは言えない。役人の感覚では、無理やり通せなくもないという感じだと思う。
但し、明確な法的根拠がなければ、国葬ができないのかというと(米国が慣習で国葬を行ってきた様に)そうでもない。
国の行政は、必ずしもすべてに法的根拠は必要ない。
「国民の権利を制約したり、義務を新たに課したりする場合、つまり国民にとって不利益を課す行政の行為には法律の根拠が必要だとされる(『侵害留保説』)今回の国葬によって国民に不利益が課されるかというと、そうは思えない。
内閣と自民党の合同葬でも、海外からの要人警備や接遇費用はかかり、その負担が全額国費や、一部自民党経費や有志かの違いがあるとしても、数億円の国庫負担の違いであり、実際300兆円以上の日本の国家予算において国民に重要な不利益が課されたとはいえない。
吉田元首相の国葬でも相当の反対が会あったが、その後あえて法律を作らず、自民党葬・内閣葬にしてきたのも、柔軟に対応できる様にとの知恵だったのだろう。
海外からは、海外からの要人を招いて開催される国葬に対して、高齢者だけの国葬反対のデモや集会を奇異な目で見る目もある。
葬儀とは、宗教によって異なる部分はあるが故人の死を悼み、極楽浄土や天国へ送り出し、遺された側がその死を受け止め、お別れをするための心の整理をする行為である点は世界で共通している。極めて精神的な意味を持つ儀式だ。多くの国民が納得するのであれば、議会の承認でも、慣習としてでも、国王の推挙でも可能だ。
但し、それは国民が納得すればだ。
法的根拠は必ずしも必要ないが、だからこそ、内閣法制局の姑息な法律解釈に乗っかって乗り切るべきではなかった。極めて精神的な意味を持つ国民感情を伴う儀式だからこそ、堂々と国会で審議すべきだった。
おそらく、国会審議を行って説明を尽くしても、結局野党は最初から国葬に反対で、最後は強行採決と非難するだろうという読みが働いた可能性はある。静かに見送るためにも、国会審議を避けて閣議決定で進めたいという意向が更なる分断を招いている。
いずれにしても、内閣と自民党合同葬でなく国葬を行うのであれば、国会の審議による国民の意志の確認の手続きは必要不可欠であった。
③安倍元総理の功績が国葬に値しないから反対なのか
さてこの論点である。
岸田総理は閉会中審査で国葬に値する4つの点をあげている
〈1〉歴代最長の政権を担った〈2〉多くの業績を残した〈3〉諸外国が弔意を示している〈4〉安倍氏が選挙運動中に銃撃されたこと
多くの業績を残した?
安倍元総理の最大の功績は集団的自衛権の行使に道を開いたこと。中国や北朝鮮のアジアの安全保障の状況が変化する中、反対世論を押し切って解決した。NATO加盟できないまま侵攻されたウクライナの現状やスウェーデンやフィンランドまでNATO加盟を決定した現実をみると、今となっては集団的安全保障の必要性はよく理解できる。また、クアッド、開かれたインド太平洋構想による中国包囲網等は功績だ。また、消費税10%増税も実施した。国民に不人気でも長期的視点でやるべきことはやるという肚は座っていたと思う。
但し一方で、選択的夫婦別姓や、学校における性教育の阻止などの一部の極端な保守層の政策が、安倍元総理の影響だったことが統一教会に関する報道で明らかになってきた。表面的には女性活躍と言いながらもジェンダーギャップは安倍政権の元で広がった。アベノミクスは、結局、異次元の国の借金を残しただけで経済は低迷している。
諸外国が弔意を示している?
日本の総理はコロコロと変わり、英語でのコミュニケーションが不得手で海外要人としては捉えどころがなかった。安倍総理は首脳同士の個人的な信頼関係を築ける稀有な総理だったと思う。トランプ前大統領の言うままに、アメリカ製の兵器を購入したり、ドライバーや金のパターをプレゼントしたり、節操はなかったが懐に入る能力は高かった。
歴代最長の政権を担った?
これを功績とするか否かは国民と自民党議員との認識のギャップが最も大きいところだろう。
政治家の立場では6回も選挙で国民の信を受けたとなる。「安倍一強」と言われる選挙に強い安倍元総理の元で、自民党は盤石の与党基盤を作った。国民の立場だと6回もチャンスを与えたが何をしてくれたのか、となる。歴代最長というだけでは功績にならない。むしろそれだけ長く政権にいて国内の経済、国民の暮らしはこの10年でよくなったのだろうか、疑問に思う国民は少なくない。
これらのプラスとマイナスの功績を総合的に考慮しても、大平正芳、中曽根康弘、佐藤栄作各氏よりも格上の国葬が相応しいとは思えない。
以上をまとめると国葬という国の儀式は各国に存在するが、今回はその開催決定プロセスが肝心の国民の支持を得られておらず、その対象者の功績の評価も定まっていないので国葬は適切ではないのではないか、となる。
国民主権を改めて確認する為に国葬に参列する
以上の様な事を、国葬決定から2ヶ月間、自分なりに考えてきた。
すると突然、岸田総理から国葬の招待状が届いた。
僕自身が安倍元総理と特段親しかった訳ではない。政府の経済ミッション団の一員として総理の外遊に一度同行したことがあるだけだ。
外務省からの招待状の締切日付は手書きで直されていて、転送されてきたため既にその締切すら2日過ぎていたが、参加の意向をメールで返信してほしいという。おそらく世論の動向をみて、欠席者が相次いでおり、対象参加リストを増やし締切も送らせているのだろうと現場の混乱する様子が想像できた。
国葬については上記の様な事を考えてきただけに一瞬逡巡したが、参列することにした。
それは岸田総理が上げた4つ目の理由〈4〉安倍氏が選挙運動中に銃撃されたことだ。時間の経過とともに私達が忘れがちなことが「民主主義国家の元総理が選挙活動中に銃で殺害された」という事実だ。
現職総理大臣や総理大臣経験者が、殺害されるのは原敬や高橋是清以来のことだ。
僕個人は、様々な問題があることを承知しつつも「元総理が選挙中に凶弾によって銃殺された」
この1点をもって安倍元総理は特別に国民として弔意を示す儀式が用意されたら参列し弔意を示すのが適当だと考える。
国民主権という言葉は、国の政治的な意思決定は国民が行うというものだ。
権利には義務が伴う。国民主権を税金を払っているということで、サービスを受ける「お客さん」か何かと勘違いしている国民も多い様に思う。
独裁者の葬儀ではない、僕達が民主的なプロセスで選び続け8年8ヶ月私達の総理大臣だった人物が、銃で撃たれてその場で無念の死を遂げたのだ。自分は一貫して安倍政権には反対で一度も投票していないという人もいるだろう。
それでも、日本人として自分達の民主主義と国に感謝と敬意を表するためにも、凶弾に倒れた元総理の総理の冥福を祈るべきだと思う。
今から、武道館に向かいます。