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変質を重ねる「ラグジュアリー」に新しい言葉は必要か?

この半年ほど前から、ラグジュアリーについて調べ考えることが多いのです。4月に以下のような文章を書いています。

ラグジュアリーとは時代によって変化するものである、というのが基本です。ラグジュアリーがラテン語のluxusに由来し、「耽溺」とか「道楽」を意味していたことから分かるように、必ずしも必要ではないけれど、気ままな気分や時間を費やすお伴であったり、社会的権威の象徴だったりするわけです。古くは王室や貴族の人たちという特殊な人たちがもつものがラグジュアリーであったのですが、近代、特に欧州では、そのような稀なる階層の人たち以外の人ももつようになってきたのですね。19世紀の新興ブルジュアなどが思い起こされます。

そして20世紀の後半になって出てきた現象は、その「以外の人」というところに、欧州以外の中流層が入ってきたことです。ルイ・ヴィトンは第二次世界大戦前にはエジプトや米大陸などにも店を出していましたが、戦後は1970年後半の日本進出に至るまで、フランスのパリとニースしか店舗がありませんでした。フランスにLVMHなどのラグジュアリーのコングロマリットが1980年代後半に設立されますが、ラグジュアリー商品が日本やそれ以外のアジアや中東などに盛んに売れるようになったのは1990年代半ば以降です。一言でいえば、マスマーケティングとしてのラグジュアリーが認知された、ということになります(この「ラグジュアリーの民主化」によって、ラグジュアリーは品がないとの汚名を「マス」から着せられることになった、とも言えます)。

そしてこの頃から、「その周辺」が動いていきます。つまりラグジュアリーブランドを対象としたコンサルタント活動やリサーチ、または大学のビジネススクールにおけるラグジュアリービジネスコースの設置です。フランスの大学が先行し、イタリアの大学も後を追います(ラグジュアリーブランドの多くはフランスとイタリアに発し、スイスの時計や英国の雑貨などが「それ以外」という位置にあります。よって、米国は「民主化」されたラグジュアリーの領域とするならば、仏伊がラグジュアリーの「リアル感充実先進国」ということになります。それでも仏は高級感を重視し、伊は審美性や質感を重んじるという差はあります)。欧州の学生もいますが、多くは中東やアジア、あるいは南米など、これからラグジュアリービジネスを立ち上げたいと希望する人たちのための受け皿になったと表現できます。それも、既にラグジュアリー産業のなかにいる人ではなく、今の自分が関与するビジネスの質を変えたいと思う人たちが、ラグジュアリービジネスのエッセンスを探るわけです。

今世紀にはいり、さらなる変質をラグジュアリーは遂げざるをえなくなります。インターネットの普及に対してラグジュアリーブランドは当初及び腰でした。オンライン販売に消極的であっただけでなく、サイトにでさえ懐疑的でした。なにせ、ラグジュアリーブランドは「どこで誰が手で作るか」が肝であり、それを都会の不動産価格の高い限られた店で手にとって「上客扱いをされて」買うことに意味があったのですが、ネットはこれらの基準をガラリと変えることになります。

正確に言えば、ネットが基準を変えたというよりも、ネットのユーザーがラグジュアリーブランドの顧客になってきたことにより、ブランドメーカーなどがユーザーに対応するために、ラグジュアリーの基準を変更するに至ったのです。例えば、それまでラグジュアリーであるのは、いわば上流階級のフォーマルさが必須だったのが、ファッションのカジュアル化と相まって、スニーカーが重要な商品アイテムになる。

あるいは情報の非対称を基にしており、ラグジュアリーのミステリアスな部分が前面に出ていたのが、情報の透明性の要求の高まりとともに、生産工程の「ガラス張り」もユーザーからの要望として、対応を考えなくてはいけなくなってきたのです。

また、上客はブランド側には知られながらも、一般には隠れているような環境設定が上客を扱うための条件でした。今、データ管理によって客は世界のどこの店に行っても、上客であると知られることが可能になりつつあります。これはVIPの扱いとして本人は嬉しいのか、嬉しくないのか、という問いを生みます。しかし、これでも、この変質しつつあるカテゴリーをラグジュアリーという名称で語っていくのが良いのか、あるいはまったく別の名称のカテゴリーで括っていくのが良いのか。その分かれ道に来ているのではないかと思います。もう少し、このテーマを書いていきます。

今日は、このへんで。

写真は @nzai_ken at instagram

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