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『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』が失われた社会と哲学ブーム

『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』としての文化

2022年サッカーワールドカップでは、強豪ドイツを破る日本代表の活躍もさる事ながら、ファンや選手が試合後のスタジアムを清掃して帰る、という日本人の振る舞いが世界中で称賛されました。勝利の高揚感のなかでも、敗北の絶望感の中でも、必ずゴミ拾いや片付けをして帰るサッカーファン・関係者の皆さんには、同じ日本人としても本当に頭が下がる思いでした。

11万件以上の「いいね」がついたFIFA公式のツイートを見ていると、「日本人は毎日学校で自分たちの教室を掃除をしている。日本の学校には清掃員がいない」という趣旨のコメントが目に付きました。それを見て思ったのは「え、それが普通じゃないんだ」ということです。まさにこれこそが「文化」ということなのでしょう。

文化というと、着物や歌舞伎などの「伝統文化」がまず頭に思い浮かびますが、あるシーンやコミュニティーで多くの人がとる行動様式や立ち振る舞いも時に「文化」と呼ばれます。そうしたいわば日常の文化は、私たちの仕事や暮らしの中に深く溶け込んでいるので、普段ことさらに意識することはありません。こうしてその文化の外にいる人から注目され、指摘されて、「そうなのか」とその存在を認識するのです。

この意味での文化とは、『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』であるとも言えます。日本人なら多くの人が、「来たときよりも美しく」は正しく良いことだと考えます。「みんなそういうけど、本当にそうかな」という人はもちろんいると思いますが、初期値としてはそれは「正しい」「良い」となっており、だからこそ「みんなそういうけど」という反対意見が生まれるのです。

文化のライフサイクルは短くなっている

この『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』としての文化は、時代とともに移り変わります。年賀状やお歳暮を「良い」「美しい」とした文化は徐々に廃れ、既読スルーは「良くない」などという新しい文化が次々と産声をあげるのです。昨日の若者文化は今日のアナクロニズムとなり、やがては懐古主義になってその使命を終えます。

インターネット以降、この文化のライフサイクルは一段と短くなりました。インターネット自体のバージョンアップが、これまでの社会インフラとは比べ物にならないほど高頻度だからです。絵文字を多用したメールが若者の文化から「おじさん構文」になるには10年もかかりませんでした。コロナ以降、社会のデジタルトランスフォーメーションが一気に進み、その傾向はますます加速するでしょう。

そうなると私たちを襲うのが、「正しい」「良い」「美しい」という価値判断にまつわる不安です。初期値が頻繁に更新され、不安定な状態になると、何を「正しい」「良い」「美しい」と判断してよいのかは、多くのシーンで個人に委ねられるようになります。それに従うにせよ反発するにせよ提供されていた初期値が不安定になり、私たちは知らぬ間に判断の拠り所を失ってしまっていたのです。

データを元に科学的に判断すればいいだろう、と思われるかもしれませんが、データで判断できることは限られています。というのも、

  • データでかたがつくことと、そうでないことがある

  • 十分なデータが出揃うまで時間がかかることがある

  • データにアクセスできないことがある(物理的に・知識的に)

からです。

「初期値の喪失」を補う哲学

そうして「正しい」「良い」「美しい」と自分では判断できないことが身の回りに増えてくると、断定口調で言い切る扇動者や、陰謀論に傾倒する人が増えてきます。『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』がなく、データやファクトを見ようとすれば余計混乱してしまう。そうなると、ぐるぐる回る思考を打ち切ってくれる、あるいは少なくとも出発点となってくれる強い断定は魅力的です。

年功序列だったり、年賀状やお歳暮などの礼儀を重んじる文化は、私自身毛嫌いしていましたし、アナクロニズムで廃れて当然と思ってきました。しかし、それに従うにせよ反発するにせよ、『「正しい」「良い」「美しい」の初期値』としては機能したのだと気付きます。それらを肯定するわけではないのですが、何かしら安定した判断の初期値がある、というのが心の安定をもたらす面もあるのです。

これが非常に不安定になり、ほとんどなくなったように見える今、扇動者の断定口調に流されず、かつ心の安定を保つには、自分の中にブレない判断の軸が必要です。その判断軸の一つとなりうるのが哲学です。哲学書や思想書がベストセラーになり、哲学者マルクス・ガブリエルがロックスターのような憧れの対象となる空前の哲学・人文科学ブームは、こうした「初期値の喪失」を背景にしているのではないでしょうか。

人文学を愛し、それを人生の糧とする私にとって、これはとても嬉しいトレンドです。ただ哲学をはじめとした人文学は、私たちが文化や扇動者に求めるような明快な判断の初期値を、素早く提供してはくれません。私たちの中に、時間をかけて、そうした判断軸を育ててくれるのが人文学の知見なのです。

どんな入門書も「一生かけて◯◯を学ぶ」の第一巻

私事ながら最近ジャズギターを勉強しはじめたのですが、実はこれが3回目のチャレンジです。過去にも挑戦したのですが、難解で覚えることが多く、いずれも直ぐに挫折してしまいました。今回は三日坊主にならず続いているのですが、秘訣は「3年かけてジャズギターを学ぶ」というコンセプトの教則本を使っていることです。

モノにするのに3年かかるのだったら、今このくらいの進捗でも問題はないのだろう。そう思えることで、遅々として進まない日々の練習にも身が入るというものです。哲学をはじめとした人文学を学ぶのも、まずこのような心がけが大事なのではないでしょうか。どんな学問もそうだとは思いますが、人文学は一日にしてならず、なのです。

どんな入門書を手に取るときも、「一生かけて◯◯を学ぶ」というシリーズものの第一巻だと考える、くらいが良いのではないかと私は考えています。

文学部だった私は、戦中に投獄された詩人の息子だった恩師から、卒業時にこんな言葉をかけてもらいました。

「文学は社会で何の役にも立たないだろう。でも、君の人生の糧となるだろう」。

当時は正直あまりピンときませんでしたが、今はその意味を噛み締めています。

#COMEMO#NIKKEI

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