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働いて稼ぐ(だけ)の時代の終焉〜起業にしか経済的価値と社会的価値の両立する働き方が残されないのかも〜

やや旧聞に属するが、静岡県の川勝(元)知事が 職業差別的な発言をしたということで問題になり辞任した。

彼の発言の不適切さは明らかだと筆者は考えるが、好意的に補足して解釈するならば「世の中には様々な仕事があり、牛を飼うような仕事や物を作る仕事もある一方で、県庁職員のようにそうした仕事がうまくいくように頭を使う仕事もある。」ということだろう。様々な役割を果たす無数の職業をそれぞれの人が担うことによってこの社会全体が成り立っているのであって、どの職業が(それが法や道徳に反するようなものでないなら)上であるとか下であるとかということではない。

 ただ、働いたことに対する報酬の多寡には大きな差があり、金銭的に報われやすい仕事とそうでない仕事があることは、現実の問題として厳然と存在している。

「ブルシット ジョブ」という言葉があるが、言ってみればどうでも良い仕事、冷静に見て世の中にどれだけ役に立っているのだろうかと疑問がつくような仕事で多くの給料をもらえているというパラドックスについては指摘されて久しい。

 一方、コロナ禍の間、こうしたブルシットジョブとは対局にあると言ってよい、必要不可欠な仕事、医療従事者をはじめとし日々の私たちの生活を維持してくれている、リモートワークでは済まない、 いわゆる「エッセンシャルワーク(ワーカー)」という言葉が生まれ、その一時期だけはもてはやされたが、コロナ禍も人々の記憶から急速に薄れつつある昨今、「エッセンシャルワーク(ワーカー)」という言葉もさっぱり聞かれなくなった。


また、今年4月に入社したばかりの新入社員が早々に退職を決意することも話題になっている。

会社の側と新入社員の側のどちらに原因があるのか、という犯人探しをしても、本質的にはあまり意味はないと感じていて、それだけ働くことと働くことを選ぶことの難しい時代になっているのだ。

新入社員が就職先を選ぶにあたっては、良い給料で自分のやりたいことができそうな会社を、その時の自分の可能な限りの情報や知識から判断して選んで来たのだと思う。それが、入社して半年どころか半月もしないうちに間違っていたと感じていることが退職の原因になっているのであろう。 もちろん新入社員側の判断の甘さ・拙速さという問題もあるのだろうが、一方で働くことにどのような意義を見出し、そこにどのような報酬が支払われるかということの雇用側とのミスマッチが大きくなっているということだ。

とはいえ、全ての仕事が同じ賃金、ということに仮になった場合、日本人の好きな「平等」や「格差是正」にはなるのかもしれないが、果たして私たちはより自分にフィットし価値があると思える仕事を求める努力をするようになるだろうか、と考えると、それもまた違う結果を産むのではないか。

こうして考えると、働いてそこで得られる報酬(金銭報酬)と、働くことによって実現する価値あるいは自分の自己実現の乖離がますますひどくなっているということなのだろうと思う。

 ではそのような時代にどう対処していけば良いのか。

 問題の本質は自分が働くこと、それによって生み出す価値あるいはそれによって自分が得られる満足感や充足感などの内面的な価値と、働くことによって自分が得られる(金銭)報酬、あるいはステータス や肩書きといった外面的な価値のミスマッチをどのように埋めていくのかということだと思う。

 ステータスや肩書きについては、どのように埋めてたらよいのか、まだ良いアイデアはないが、少なくても金銭報酬に関して言うならば、報酬と自分が働くことの関連性を弱めてしまうことが一つの解決策になりうるのではないか。

 端的に言えば、働くことによって得られる給料以外に、自分なりに金銭報酬を得る他の方法や手段を見つけておく、ということだ。 一番シンプルに言うなら、自分でお金を貯めてそれを資産運用に回し、ピケティ が言う r >gの法則に従って増やしていくなら、すぐには無理でも一定以上の資産規模となれば働くことの報酬と資産運用による報酬の2つが収入源となり、やがて資産運用の報酬が働くことの報酬を上回っていくのであれば、働くことの報酬の意味は少なくても経済的には小さくなっていく。

その究極の形態としては、無報酬のボランティアであっても自分の内面的な満足を得られる仕事であるならば構わない、という状態が考えられる。

もちろん、実効性のある資産運用のためにはその元手となる一定以上の資金が必要で、資産家の家に生まれるなどのことでもない限り、まずは働くことによってその元手を貯めなければいけない。この点に課題はあるが、もしこうしたシナリオが自分にとっての最適解だと考えられるなら、 新卒の就職の時には働くことの外面的な価値=金線報酬に大きなウエイトを置いて、内面的な価値に関してはあえて目をつぶる。そして最初の10~20年を稼ぐことを中心に置いて働くという人生設計・キャリアプランを取ることもできるだろう。 その代わり、ある程度稼いで元手を貯め、同時に資産運用のスキルを磨いて自分が働くことの報酬と資産運用による報酬が逆転する頃には、働くことの内面的な価値を重視した職業にシフトしていくことができる。

 少し前から話題になっていた、若い世代を中心に起きたFIREムーブメントも、こうした働くことに関する人生設計のごく一部分が切り出されたものと考えることもできるだろう。いわゆるFIREをする前が稼ぐことを中心に働く時期であり、FIREをした後が働くことの内面的価値を重視して、無報酬も含めて広い意味で働いていく時代ということである。その意味でなら、FIREのリタイアとは、稼ぐことを中心にした仕事からのリタイアであって働くことそのものからのリタイヤではない。 むしろ働くことの内面的な価値を追求するのはFIREしてからということになる。

これまでは働くことの内面的な価値と外面的な価値が両立する、ないしは、ない混ぜになりながらどちらもそこそこに満たされていくという幸せな時代だったと思うが、これからはなかなかそうはいかない、ということなのかもしれない。

 一方で人生は長くなり、100年時代と言われるようにもなった。そうであれば、1つの仕事で働くことの内面的価値と外面的価値の両方を満足させようとするのではなく、前半においては外面的価値を重視して働き、後半では内面的価値をしてのを重視して働くという分け方も考えられるのではないだろうか。

 もし この2つの価値を同時に成り立たせる働き方が今後もあるのだとすれば、 それは起業ということになるかもしれない。 新しい価値をゼロから生み出していくことの強烈な刺激は、苦しくもあるだろうが楽しい経験でもあり働くことの内面的価値を満足させるであろうし、 また起業が成功することによってM&Aや IPO などといった EXIT が達成できるなら、そこに大きな経済的価値という外面的な価値もついてくることになる。時にそれはサラリーマンとしての生涯年収以上のお金を手にする可能性もある。

 もちろんこうした起業は誰にでも勧められるものではないし、またその適性が多くの人に備わっているというものでもないと思うので、これはそうしたチャレンジを望む人に限って開かれた道ではあると思う。

一方で、組織に属しながら働くことによって、前半においては外面的価値のために働き、後半において内面的価値を重視して働くということであれば、これは起業よりもはるかに多くの人にとって現実的な選択肢になるのではないだろうか

 こうした働き方が実現するのであれば、いつまでたっても賃金が上がらないという日本の労働環境にも一石が投じられるかもしれない。言ってみれば、これまで、労働の内面的価値や、外面的価値でも肩書きなどの金銭に関係しない部分によって、賃金が上昇をしないことをごまかしてきたのがこの数十年だということもできるかもしれない。それが、1円でも高い賃金を求めて働く人が多くなれば、状況も大きく変わるだろう。他方、本当に内面的価値を満足させられるような仕事は、低い賃金や、場合によっては無給でも人が集まってくるという状況も生まれてくると期待したい。

いずれにしても、古い労働観や報酬体系・評価体系といったものを今一度ほぐして整理し、 新しい時代の働き方に関するフレームワークを、社会的に共有できるようになることが求められているように思う 。


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