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高齢政治家が、失言を失言と思わないのには理由がある

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の前会長である森喜朗元首相は、大会ビジョンでもある「多様性」の否定、女性蔑視につながる、明らかに不適切な発言をされました。

この時期の、この発言以上に驚いたのは、高まる批判に応じた森元首相の謝罪会見でした。

誰しも間違えることはありますし、心からの謝罪があれば、辞任につながるような大騒動にならなかったのではないでしょうか。

謝罪会見の全文を読んでみると、「形式的に謝罪をすればそれで良いだろう。自分が正しく、騒いでいる奴らは馬鹿である」という態度がありありと伝わってきます。(数分で読めるので、興味がある方はぜひ全文を読んでみてください。謝罪の反面教師として優れた教材です)

さて、ここで疑問に思うのが、なぜ自分は一切悪くないといった自己欺瞞に満ちた態度が取れるのかです。

自己欺瞞は社会的に大きな効能があり、さらに政治的な活動を行う上で特に大きな利益を享受できるからだと、私は推察しています。

カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソン教授は、多数の学生に対する実験を行いました。そして、人は相手が「博識」なのか「自信過剰」なのか、区別ができないことを突き止めました。さらに、真の正しさとは関係なく、我々は「自信過剰」な人に、ついつい従ってしまう傾向にあることがわかりました。

この実験でわかったように、自分をより大きく見せようとする行為は、真偽が見破られにくいため、恋愛でも、就職でも、友人関係でも、有利に働くことがわかっています。正直な態度を貫き通していたら、決して手に入らないような利益を得られるのです。

さらに、意図的かどうかは別として、自信満々に生きている人は、決まって競争のなかでより威圧的であり、周囲の人は対決を避けようとするため、自然と高い地位に登り詰めていきます。

逆説的ですが、長年高い地位についている人は、自己欺瞞に塗り固められ、謙虚に新しい価値観を学ぶことができなくなっている可能性があるのです。

「常に自分が正しく、自分は誰よりも優れている」と考えて生きることには、大きなメリットもあります。しかし、誰の目からも明らかに間違っているという事象でつまずき、全てを無に帰してしまう危険性があることにも、着目しなければなりません。

昔から言われてきた「実るほど首を垂れる稲穂かな」は、人間社会の本質を看過した意義深い格言であることが痛感させられます。

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