見出し画像

価値観を揺らす「キュレーション」 〜ライアン・ガンダー展にみる、アーティストの新たな価値創出の可能性

お疲れさまです。uni'que若宮です。

早くも7月ですね。今日はひさびさにアートについて書きたいと思います。


ライアン・ガンダー展をみてきたよ

先月末、滑り込みでオペラシティギャラリーのライアン・ガンダー展をみてきました。

「ガンダー展」と略しましたが、正式名称は「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」。これ、どういうことかというと、実はライアン・ガンダーの作品は展示していないのです。

ライアン・ガンダーは自身が現代アーティストであり、もともとはガンダー自身の作品展が予定されていました。しかし、ガンダーが来れなくなって開催延期に。

当初予定していたガンダーの個展は新型コロナウイルス感染症を巡る情勢の急激な悪化、ことにイギリスにおけるロックダウンにより、やむなく開催を延期することとなりました。これに伴いガンダーから「この状況で僕にできることはないだろうか」「収蔵品展のキュレーションはイギリスからできるのでは」と申し出があり、当初上階(4階)で予定していた「ガンダーが選ぶ収蔵品展」を全館で開催することとなりました。

こんな経緯でガンダーはアーティストでありながら、「キュレーション」として展示に関わったわけなのですが、これがなかなか面白いものでした。


「色を想像する」

展示の第一部は「色を想像する」。

内容はというと、寺田コレクションの中からモノクロームの作品ばかりを選び、一挙に展示するもの。「色を持たない作品のみ」を並べることで、かえってそれぞれ作品に描かれなかった色を想像する、ということが意図されています。

展示の仕方も一風変わっていて、こんな風に

画像1

作品同士かなり近接して展示されています。通常、美術間では(作品性を邪魔しないように)一つひとつの作品は空間的に独立した形で展示されるのですが、こんな風に近接しておかれていることで、各作品を比較したりその間の関係性を読みとろうとしてしまいます。

画像4

(左:鄭 相和《無題》、右:蓜島伸彦 《Untitled(flowers)》)

そしてもうひとつ面白い展示の工夫として、タイトルや作者のキャプションが作品の脇につけられているのではなく、向かい側の壁にこんな風にまとめて設置されています。

画像3

作品が展示されている壁面とちょうど鏡合わせになって、反対の壁に作品と同じ大きさの枠線が描かれ、キャプションがつけられているのです。

ちょっとした仕掛けですが、通常ひとつの独立したものとして一作品の鑑賞体験が閉じているのを開くような効果があり、これまでにない鑑賞体験を生んでいました。普通の展示では、①作品を見る→②(すぐ隣の)キャプションを見る→③次の作品に移る【以下繰り返し】という風になりがちですが、作品とキャプションよりも異なるアーティストの作品同士や、キャプション同士のほうが近接しているため、作品間の関係性の方に意識が開いて、作品ごとの独立した鑑賞にはならないのです。

実際、李禹煥など何度かみたことがある作品も結構あったのですが、単体で見たときと今回見たときではまったくちがう鑑賞体験となりました。


「ストーリーはいつも不完全……」

第二部は「ストーリーはいつも不完全……」と題された展示で、こちらの仕掛けは「暗い館内で懐中電灯で照らしつつ作品をみる」というものでした。

鑑賞者は入口でひとり1つずつ懐中電灯を手にとり、「SEARCH 探索」「GAZE 注視」「PERSPECTIVE 視点」「PANORAMA パノラマ」「VISION ヴィジョン」という5つのセクションに分かれた展示空間を進んでいきます。

最初のセクションの「SEARCH」では洞窟の穴から外を見ているこんな写真に始まり、

画像4

(小山穂太郎《Cavern》)

窓の隙間から外をのぞく絵などが並べられているのですが、その隙間にサーチライトのように懐中電灯の光を照らすことで、覗きこむ感覚が強くなります。「ストーリーはいつも不完全……」というタイトルが暗示するように、懐中電灯をもって作品を「覗き込む」という行為を通じて鑑賞者が作品世界の体験に関与するのです。

あるいはこちらの作品では

画像5

(加藤清美《光》)

光をさがしてたどたどしく歩く(盲目の?)少女の歩みとそれを後ろから見つめる母親が描かれているのですが、鑑賞者がまさにその「光」を照らすことができます。

鑑賞者は懐中電灯を使ってそれぞれの作品に関与し、

画像6

(小松崎邦雄《花の祈り》)

和彫りの「花」を舐めるようにGAZEしたり、

画像8

(山本麻友香《three eyes》)

光の輪を動かして、3つの目をみつけたりします。

通常の美術館の鑑賞体験では安定した一定の光の中に作品が置かれており、作品はひと目で全体がみえるようになっていますが、懐中電灯を使うので大きな作品になると部分ごとにしかみることができません。ですがその制約によって作品を鑑賞する凝集度が高まります

こうした体験をすると、作品がよくみえるように一様な明るさで照らされている通常の美術館の展示が、果たして「理想的な展示」なのか、よくわからなくなります。

たとえばこの屏風の作品。

画像8

(大野俊明《風の調べ:洛北大原 宝泉院》)

屏風の凹凸に光の当てながら鑑賞するのと、展覧会ページにあるように平面的に絵柄をみるのとでは

その体験が全く異なります。

個人的にはこちらの作品とかは、

画像9

(相笠昌義《日常生活:公園にて》)

むしろ次回もぜひ懐中電灯でみたい、と思いました。


「キュレーション」の侵犯

ガンダー展をみての感想は「ガンダー、やりやがったな…」というものでした。

上述のようにガンダーはキュレーションによって新しい鑑賞体験を生み出してしまっており、(他の展示で同じ作品をみたとしても)この体験はこの企画展でしかできないものです。

もちろん正確にいえば、あらゆる展示がそれぞれ一回的な体験です。どれだけ不確実性を排し、理想的な鑑賞体験をしてもらえるように配慮したとしても、鑑賞体験は鑑賞者ごとにちがいます。しかし実際には「純粋な鑑賞」はなく、作品はそれぞれ一回的な時間空間に巻き込まれているにもかかわらず、ホワイトキューブと呼ばれる近代的な展示方法は、作品以外のものを廃して「純粋な鑑賞」ができるかのように僭称するのです。


ガンダー展はこうした「透明化した前提」そのものを前景化し、展示のあり方自体を考え直させます

そして、キュレーションもまた「透明」な行為ではありません。キュレーションはとあるテーマのもとに作品を集め、そこにストーリーを構築することですが、しかし通常、キュレーションはアート作品の「作家性」を邪魔しないように心がけられます。主役(図)はあくまで「作品」たちであり、キュレーターはその補助線(地)である、というのが暗黙の了解になっています。逆にいえば、キュレーターには「作家性」は求められないのです。

ところが今回の(自身がアーティストでもある)ガンダーの展示とキュレーションは、それを確信犯的に侵犯しています。

同じ作品でも他の展示でみるのと別の体験であった、ということはガンダーの展示とキュレーションが作品に独自の付加価値を加えている、あるいは価値を変容させている、ということです。

しかし、近接して多くのモノクロームの作品と掲示されたり、暗闇の中でみられる、というような鑑賞を、作者自身はほぼ間違いなく想像していなかったでしょう。つまり、ここでは作者の意図とはちがう展示であり鑑賞が起こっている。


キュレーションによるこうした作品の価値への侵犯的な介入はどこまで許されるのでしょうか?

たとえば絵画を逆さまに展示する、天井から宙吊りにしてモビールのように展示する、オリジナルの色がほとんどわからなくなってしまうような真っ赤な照明の部屋に展示する、作品から20m離れたところからしか見れないように展示する、選挙ポスターとならべて展示する、などなど。展示方法によって作品の体験は大きく変わりうるでしょう。しかしそのそれぞれを作者は容認するでしょうか?ものによっては作者が怒り出してしまうかもしれません。

しかし逆にその時、作者はどこまで展示方法に怒る権利や鑑賞を指示する権利をもつのでしょうか?

作者はたしかに作品をつくりました。制作時にはある鑑賞を想定していたかもしれません。しかし、鑑賞体験は本質的には鑑賞者に委ねられています。これは美術館ではなく作品を購入した場合にはより顕著です。作品をどんな環境に展示するか、作者がコントロールできることではありません。


「キュレーション」か「作品」か、それが問題だ。

ガンダーは、この展示と鑑賞方法のキュレーションによって、(おそらく作者が意図とはちがう)ガンダー独自の体験を生み出してしまっています。

これは見方を変えると、企画展そのものが「ガンダーの作品」だとみることもできます。いや、ガンダーが作品をつくっているわけではないのだから、ガンダーはあくまでキュレーターだ、という意見もあるでしょう。しかしデュシャンのレディ・メイドから始まる現代アートの文脈では文字通り「つくる」ということはアートの必須要件ではなくなっています。

だとするなら今回の企画展は、「他のアーティストの作品」を「素材」として使ったガンダー自身の現代アート作品だとみることもできるのではないでしょうか?

既存の作品を使っていても、そこにガンダーならではの「新しい体験」が生まれており、上記のようにその体験は、これまでアート・ワールドの中で透明化していた「展示」や「キュレーション」にまつわる固定観念や因習も揺さぶるものです。(ホワイトキューブは「純粋な鑑賞」ができる理想的展示なのか?そもそも「純粋な鑑賞」などあるのか?作者の意図とはちがう鑑賞は許されるのか?)

僕は一度見終わってから、第二部の「ストーリーはいつも不完全……」の方だけもう一度みに入ったのですが、その時は作品そのものではなく、「他の鑑賞者の懐中電灯の光」をみていました。人が作品をみる順番やどの部分からみはじめるか、あるいは同じ作品上における複数の鑑賞者の視線の交錯、などなど、そこには(通常の美術館では見えることのない)鑑賞者それぞれの「視線」までが見える化されていました。

こうした体験のすべてが、ガンダーによってつくり出されたものなのです。


アーティストの新たな価値創出の可能性

ガンダーのキュレーションは、他のアーティストの作品を紹介するものでありながら、そこに独自の作品の見方を付け加え、あたらしい価値をつくっています。

展示会のタイトルにも「ライアン・ガンダー」がしっかり刻まれている通り、そこには通常のキュレーションを超えた作家性が生まれています。

これはたとえば、他のアーティストの作品を組み合わせながら別の「つながり」を生み出すDJの仕事/作品(work)に近いとも言えますし、「見立て」ももちいて空間演出する千利休の茶席のようでもあります。

重要なのはこうした「ものの見方」の仕掛けがあたらしい価値を生む、ということです。しかも、ガンダーは今回の企画展をすべてオンラインのみでやっているのです。

アーティストは自身の作品をつくるだけではなく、そのユニークなものの見方や価値の見つけ方によっても社会を変容させたり他者を触発する能力を持ちます。(僕自身、アート思考の取り組みとして、アーティストとプロジェクトを一緒にする中で、彼らのまったくちがう視点に触発されることがたくさんあります)

作品をつくらずともキュレーションによってあたらしい体験を生み出す。もしかするとアーティストによるキュレーションは、↓の記事にあるような「借り物」の展示ではなく「常設展示」に新しい価値を見出す可能性を秘めているかもしれませんになるかもしれません。

あるいはもっといえば、アート思考的な「異化」のようにアート作品にかぎらず世の中のモノやコトをキュレーションし、並び替えたりつなげたりして「社会の新しい見方」を生み出すこともできるでしょう。


SNS時代はある意味では1億総キュレーター時代であるともいえますが、「アーティストによるキュレーション」は単なるまとめとは異なり、価値観や常識をゆらすような触発力を生み出すことができるはずです。アーティストが制作のみならず「キュレーション」によって価値創出をしていく可能性を感じた企画展でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?