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「孤独を感じること」と「孤独が苦しいと感じること」とは別。


内閣官房がはじめての孤独実態調査をした。そのデータがあがっていたので自分なりに分析してみたらとても面白いことが発見できた。

孤独の正体とは、周りに人がいないとか、話し相手がいない、とか、そういう人間関係やコミュニケーションの部分だけにフォーカスがあたりがちだが、この調査から浮かび上がってきたのは、「孤独とは貧困の問題」という新たな視点である。

それについてプレジデントの連載を書いたのでぜひ読んでほしい。

https://president.jp/articles/-/57035

もちろん「金さえあれば人は孤独に苦しまない」なんて暴論は言っていない。逆に「裕福な人間は孤独にならない」という話でもない。そんなことは当たり前の話だが、ツイッターではこういうリプが必ず来る。案の定、何に対しても「相関はあっても因果があるとは言えない」としか言わない輩もでてくるわけだが、そういう重箱隅つつき快感論者は一生やっていればいいと思う。

生まれて物心ついてから一度も金の心配などしたことないという人には決してわからないだろうが、「金がない」という環境は、人間のあらゆる行動を委縮させる。何もしたいと思わなくなる。失敗したくないと思う。面倒くさいと思う。自分の姿形すらどうだっていいと思う。そんなもの気にしていられないと思う。自分のことすら気にしない人間は他人のことを気にしたり、心配したりする余裕がなくなる。そうした状態に陥ってしまうと思考の視野が狭くなる。精神的にも閉じてくる、病んでくる。もし、そうした状態を「孤独に苦しむ」ということだとするならば、それを解決するのは対人関係やコミュニケーション以前に、毎日を心配しなくていいお金の話だったりするのではないか。

今日食べる物にも困るほどの困窮ではなくても、進学を諦めなくてはいけないレベルの貧困もある。残念ながら、今の日本は親の年収の多寡によって進学も就職も決まる。結婚の可否にまで影響する。つまりは子どもの今後何十年に渡る将来の人生が親の収入によって運命づけられてしまうのが今の日本社会です。

とはいえ、行政からすれば支援はしていると言いたいかもしれない。事実、たとえば教育費の支援という面では文科省には修学支援金や返済不要の奨学金の案内もある。高校についても高校生等奨学給付金の制度などがある。大抵の人は今あるそうした制度を知らないことが多い。しかし、知らないのは自己責任なのか?知ろうとする意欲、知ろうとする行動が喚起されないからの場合もある。なぜ行動しないのか、は、結局「貧すれば鈍する」からなのである。これを因果がないとか簡単にしたり顔で断言する方がおかしい。

知らないのは自己責任と片付けるのではなく、知らない状態に追い込んだのは何か?を考えるべきだろう。

逆にいえば「金」の問題」なのに「みんなと一緒にいれば寂しくないよね」といわれても「はあ?」って思う人もいるかもしれないよね、という話。

当然、今回の分析だけですべての結論を導いたなんていうほど傲慢ではないが、孤独問題の一端が経済問題だと仮定するならば、政府や自治体のやるべき内容も道筋も違うものが見えてくるかもしれない。そういう新しい点も必要なんではないか。

つまり、言いたいのは、何事も一方向だけから見てわかったような気になるなということ。他人に対して「それバイアスかかっているよね」と批判しながら、自分だってバイアスかかりまくりの前提で物事進めようとする人がいかに多い事か。

自分で見る事のできない方向、気付かなかった方向を見る人がいれば、「そんなもん見えねえよ」と一刀両断するのではなく「そういう見方もあるのか」と思えないとね。といっても聞く耳持たない人はこんなことすらも聞く耳持たないだろうし、別に聞く耳もってくれと強制するつもりもないから、好きにやって。喧嘩売るなら暇があれば買うけど?って思いますけどね。


そもそも「望んだ孤独」と「望まない孤独」があるという分類が僕には全く理解できない。望むと望まないとにかかわらず孤独は人の周りに必ずあるし、人の中にも存在する。まさに「人との間には必ず孤独が生まれる(哲学者・三木清)」のである。そして、大事な事は「孤独があるからこそ人は生きられる」のである。一生、孤独感のない人生って「それ生きてるっていえるの?」と思う。

言ってしまえば、「孤独とは空気」のようなものであり、臭い空気もあれば濁った空気もある。それをいちいち害悪だとか健康に悪いとか言い出したって仕方ないでしょ。海には海の空気が、山には山の空気が、街には街の空気が、人の間には人の空気がある。

というと、「人間に害を及ぼす悪い空気物質だってある。そういうのを吸って死んでしまうほど苦しい人もいる。そういう人は勝手に苦しめというのか」と反論されるんだが、そういう自分に同意しない者の意見を、気に入らないからと、論点ずらして理屈付けし、異端で邪道で排除すべきものみたいにする態度、本当に改めた方がいい。

「望んだ孤独」と「望まない孤独」とがあるのではなく、後者が「絶対的普遍的な害悪」なのでもなく、「孤独を苦痛に感じない人」と「孤独を苦痛に感じる人」がいるってことなんです。もっと細かくいえば、同じ人間でもある場面では「孤独を楽しめる」し、ある場面では「孤独を苦しい」と感じたりもする。年齢の場合もある。時と場合と環境によって感じ方は変わる。この大前提を度外視して話を進めようとするからわけがわからないのだ。

確かに「孤独が苦しい」と感じる人もいるだろう。それは否定しない。しかし、問題は「苦しいのは孤独(だと本人が思っていること)のせいなのか?」という問いから始めることが重要だ。そうすれば「孤独とは何か?」を考えるきっかけにもなる。

「自分の周りに人がいなくて寂しいから孤独なのか?」そう問いを立てるなら「じゃあ、誰かがそばにいてくれたら孤独じゃないのか?」という新たな問いを立てられる。「誰でもいいって話じゃないなら、一体誰なのか?」と問いはどんどん深められる。やがて「誰かがいてくれたからといってそれは解決になるのか?」という問いだって生まれる。どんどん問うていい。

但し、その問いの答えを出すことなんて1ミリの価値もない。答えなんか出す必要もない。そもそも答えなんか存在しない。「問う」という行動そのものに価値がある。

問い続けて何かヒントがほしければ、検索しましょう、本を読みましょう、誰かに聞きましょう、同じ問題意識を持つ人と語らいましょう、そんなことにしている間に「そもそもあなたが感じていた孤独って一体なんだったの?」という振り返りの問いも生まれてくるでしょう。

孤独は「孤毒」である、などという言葉遊びする輩もいる。毒は薬にもなるし、薬は毒にもなる。要は使いようであって、それは、その人の向き合い方の問題でもある。誰にとってもいつ何時でも絶対時な「悪」なんか存在しない。

繰り返すが「孤独が苦しい」と感じてしまっている人に救いの手を差し伸べることは否定しない。それはそれで大事なことだろう。しかし、孤独を苦しいと感じる人がいるからといって「孤独を大切にしている」人のことを「悪者」扱いするのは違うだろう。

ランチを食う際に必ず誰か部下と一緒じゃきゃ気が済まない上司がいたとする。彼がそういう人なんだなってことは否定しない。時には同伴もしよう。しかし、だからといって、そいつが一人でランチする人に対して「一人で飯を食うなんて人間的に欠陥がある」なんて言葉を発したら大問題だろう。それと一緒だ。

むしろ、不思議でしょうがないのは、孤独を問題視する人の多くが、孤独礼賛本みたいなものを害悪として切り捨てたがるのは一体なぜなんですかね?孤独が好きで性に合っている人だっているのに、そういう人間はこの世から駆逐したいんでしょうか?

そうやって孤独は悪いもの、健康を害するもの、あってはいけないもの、この世から抹消しなくてはいけないものなんて規定することこそ、かえって「孤独に苦しむ人」を絶望の淵に追い込んでしまっていないかね?ゼロ孤独なんて無意味なんですよ。


外向的な人間と内向的な人間の比率はほぼ半々です。社会生活を送る上で必要に応じて人は社交的にふるまいますが、その姿は決して本性であるとは限りません。同時に、外交的100%、内向的100%のどちらか一方に偏っている人間もいない。外向的な面と内向的な面をあわせもって、時と場合と相手によって出し分けるもの。

孤独も同じです。孤独を楽しめるという人でも、ある時ふと「誰かと話したい」という気持ちになったりするだろうし、いつも誰かと一緒にワイワイ楽しんでいる人でも、ちょっとだけ一人になりたいと思う時もあるはず。どっちか一方しかない人なんていない。

孤独が苦しいと感じる人には、孤独を抜本的に消し去るなんて無茶なことは考えずに、孤独との向き合い方も変えてみてほしい。それは、孤独を見る視点を多重化するということである。何度も言うが、孤独は誰の周りにもあるものなんだから、孤独を駆逐したり捨て去ったりするものとしてではなく、上手に飼いならしていくものととらえるのです。

サンテグジュペリの「星の王子様」思い出してみてください。忘れてしまったのなら、この機会に再度読み直してもいいでしょう。

もうひとつ、スーザン・ケインの内向型人間の可能性についての本も新しい視点に役立つことでしょう。


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