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日本産「紙の名刺」は、工芸品に?

コロナ禍の行動制限がなくなり、対面の機会が増えるとともに、急に復活したものの一つに、紙の名刺がある。日本のビジネス習慣は特徴的なものが多いが、名刺の神聖性も、そのうちの一つだろう。

社会人になりたてのころは、名刺があるだけで大人になったようでうれしかったものだ。ところが、海外出張の際、相手のアメリカ人が名刺を束にしてドンと机に置き、「どうぞ、自由に取ってね」と言われた時には驚いた。トランプのババ抜きでもするように、ごくカジュアルに配られることもあった。日本では、一枚ずつ、文字面を相手に向けて、両手でひれ伏すように渡し、押し頂くものと教わっていたのに。

コロナ禍の前からデジタル化の流れで、海外では紙の名刺の存在自体、過去のものになりつつあると感じていた。海外から日本に出張する同僚には「日本ではまだ紙の名刺が要るからね!」と念を押さないと、そもそも持ってきてもくれず、到着してから慌てて印刷をかけたりするのも「日本出張あるある」だ。コロナ禍を経て、より紙離れが進むだろう。

日本もそれなりにデジタル化が進んでいるのに、紙の名刺に対するこの温度差はどこからきているのだろう?

まず、日本文化の「儀式好き」という側面に、紙の名刺がよく符号するのだと思う。お辞儀に始まり、日本の日常文化にはちょっとした儀式が多く埋め込まれている。初対面の人と「やあやあ」と小さな紙切れを渡したりもらったりすることも、まさに儀式だ。

さらに、万物に神が宿ると信じるアニマリズムの延長で、名前を書いた紙には人の魂が乗り移っているような感を持ち、恭しく扱おうという気持ちになるのではないか?そのせいで、駅のプラットホームに名刺が一枚、はらりと落ちていたりするとどっきりしてしまう。

そう考えると、紙の名刺は海外では廃れるものの、日本ではしぶとく生き残れるのかもしれない。さすがに量が増えなければ、向かうのは質の追求。実際、差別化を重ねて一枚30円もするような名刺さえ出てきている。

こうなると、位置づけは名刺as mediaであり、高級文房具と同等に愛(め)で、鑑賞する対象である。配る相手の選別にも慎重になるし、そんな名刺をもらった方も、特別感があるだろう。まるで特注万年筆を作ったり、自分だけの色のインクをオーダーしたりするのと同じく、日本独特の工芸品として「紙の名刺」が見直される時代が近いかもしれない。

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