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VUCA時代のリーダーのための「叱られる」「謝る」のすゝめ

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「叱られる」ということについて書きたいと思います。

叱られることは

①自分らしさに気づくヒント
②全体主義から脱する疑う力
③変化するきっかけ

につながるのでは?というお話です。


「当たりさわり」こそが「自分」のヒントになる

仕事柄、メンタリングしたりセミナーでお話したりする機会も多いのですが、企業務めの方と話した時によく感じる傾向があります。それは「正解を求める」人が多いことです。アート思考セミナーの後でも最後になって質疑で「つまり、どういう風にやれば成功しますか?」というような質問がきて脱力することがあります。

web記事でも「〇〇するためのたった3つの方法」とかがよく読まれるそうです。本当にとにかくみんな「失敗したくない」らしい。

しかし、「失敗しない」方を選んでいくのは効率的なようですが、それを続けるうちに「自分」がどんどん無くなっていってしまい、気づくと借り物の言葉でしか語れない人になってしまいます。


どうしてかというと、反発や摩擦こそが「自分らしさ」を見つける鍵だからです。

自著から引用します。

「自分」の形を知る
「自分」の形は人それぞれちがいます。しかし、その形は黙っていてもみえてきません。「自分」の形を知るためには抵抗に出会うことが大事です。
真の暗闇の中では、どこまでが自分の身体なのかが分からなくなり、やがて本当に自分に身体があるのか、だんだん不安になってきます。
そんな暗闇の中で「自分」を確かめるにはどうしたらよいでしょうか。身体を動かして、なにかに触れるしかありません。身体を動かし、ものに触れ、その抵抗を感じることで「自分」が確かにあるということ、そして「自分」の輪郭をすこしずつ確かめることができるのです。
抵抗に当たり、抵抗に押し返されてしまう部分。抵抗があっても押していける部分。「自分」の形はいびつです。ある部分はまったく弱いのに、ある部分は力強く、抵抗を超えてにょきにょき伸びていきます。(『ハウ・トゥ・アート・シンキング』p.204)

人は自分のいびつさ(=ユニークネス)というのは実は自分でもよく分かっていません。その形に気づくには外界とのインタラクションが必要不可欠です。失敗しないようにやろうとしたり上手くやろうとすると「当たりさわり」が無いやり方になってしまいます。しかし、「当たり」も「さわり」もないと、人は自分の形がわからないのです。

たとえば上司や先輩の言いつけを守って叱られないようにプロジェクトを遂行できたとします。しかしそれであなたらしくプロジェクトにチャレンジした、と言えるでしょうか?既存のルートから外れることなく、上司や先輩の開拓した道をなぞっただけに過ぎません。

これは皮肉なことに高学歴だったり「賢い」とされているにこそ起こりがちな罠だったりします。テストで(誰かが設定した)答えをその通りなぞり続けてきたレースの勝者だから、その癖がついてしまっているのですね。「叱られる」ことは「✗」をくらうことだと思いこんでいるので、上司や先輩のつくった轍(わだち)から踏み出すことをしないわけです。


「叱られる」を避けると「疑う力」がなくなる

こうした状況が続くと、自分の頭で考えることをやめていってしまいます。ある種の「家畜化」です。

昨日は終戦記念日でしたが、小説家の温又柔さんが戦時中を振り返りこんなエッセーを書いています。

自分以外の誰もがそれをおかしいと疑う様子がなければ、これっておかしいのでは? とはなかなか疑えない
少なくとも小学1年生の私は、先生の言うことは必ず正しいと思っていた。私は、先生に叱られるよりは、褒められたい。そのためには、命じられたとおりに動けばいい。そうしていれば、たとえ褒められはしなくとも、叱られはしない。
(中略)全国戦没者追悼式が行われる日本武道館に大きく掲げられた日本の国旗を見るたび、戦争って恐ろしいと思う。そうしろ、と命じられたことに従わなければ、みんなで頑張ってるのに足を引っ張るのか、と罵倒される。あいつは非国民だ、とレッテルを貼られ白い目で見られる。国家に忠誠を尽くすことが何よりも「正しい」とされる状況では、個々人の違和感はすべて間違ったものとして処罰の対象となる。(強調引用者)

「叱られない」を繰り返しているうちに、人はそれが癖になり、いつの間にか「疑う」こと自体ができなくなってしまう。集団ではなおその傾向は強まります。

「うたがう」というのは岩波古語辞典によれば、

「ウタは、ウタ(歌)・ウタタ(転)などと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。カふは「交ふ」の意。従って、ウタガフは、事態に対して自分の思うところをまげずにさしはさむ意」(強調引用者)

という説もあるそうですが、逆にいうと「疑わない」とは「事態に対して自分の思う所をまげ、さしはさまない」ことになります。

温又柔さんが経験したように、(本当はそちらが異常であっても)事態の方が「正しさ」として固化してしまうと全体主義的な傾向を帯び、それに対し疑義を唱えること自体が悪とされるようになります。

「叱られる」を避けることは「疑う力」を殺し、やがて全体主義同質につながってしまう。逆に言えば多少なり「叱られる」ことは、全体主義を打ち破る「疑う力」を持っていることの証左だとも言えます。


大人になると「叱られる」ことが減る?

先日、家入さんのツイートを引用し、こんなツイートをしました。

僕は、叱られたり謝ったりする回数はむしろ変化やチャレンジの度合いを表す指標ですらあるのではと考えています。

しかし、家入さんのツイートにもあるように、一般的には「大人になると叱られなくなる」とされています。まあたしかにそういう傾向はあるようで、これには3つくらいのパターンがあるように思います。

①上手くできるようになり失敗しなくなる(改善)
訓練によってスキルが付き、物事がある程度うまくコントロールできるようになります。そもそも失敗の回数が初心者より減るので叱られるのも減るわけです。

②チャレンジしなくなる(弁える)
成功が増え失敗が減るだけではなく、大人になるほど学習して、そもそも無謀なチャレンジをしなくなる、ということもあります。失敗の率が減るだけではなく、母数が減る。たしかに失敗のリスクも減りますが、保守的傾向が進み、自分を変えられない殻にもなるので、注意が必要です。

③失敗しても叱られなくなる、謝らなくなる(裸の王様化)
さらに注意しなければならないパターンとして、大人になるに従って権力がつき、失敗しているのに叱られない、謝らない、という状態になることがあります。

3つ目が最も危険な状態なのですが、日本では「年功序列」や「家父長制」があるので、こういう「裸の王様」化は非常に多いケースな気がします。

部下たちが国民の本音(「王様裸じゃね?」)をもみ消し、「王様、めっちゃおしゃっす!」ともてはやすものだから、王様は失敗に気づかず、勘違いしたままで尊大に振る舞います。そして皮肉なことに、周りの部下が有能であればあるほど、先回りして批判をつぶし王様にばれないようにするので、長く気づかない状態になります。

一定期間それがつづくと王様は自分が裸だとわからなくなってしまい、後からそれを是正することは困難になります。「王様、裸ですよ」とちゃんと進言すると気分を害し、首を切られたり罰せられたりするのです。

権力とそれに対する「忖度」が、王様から「叱られる」という機会を奪います。そのうちに叱られても自分の方が正しいと思い込み、反省し「謝る」ことができない人になってしまうのです。

こうして、誰も叱ってくれないので差別や偏見をもっているということに気づけない森さん(仮名)や「叱られ」ても反省できずふてくされて謝罪文を読み上げる河村さん(仮名)、いや言葉足らずだっただけで実は逆に応援したかったと言い訳する張本さん(仮名)のような大人が量産されているのです。


「叱られる」ことはある意味ではチャレンジ度を表すKPIでもあります。既定路線に阿らずちゃんとチャレンジし、叱られること。そしてそもそもちゃんと周りが叱ってくれる環境をつくっていくこと。

しかしただ人に迷惑をかければよいというわけではありません。大事なのは、それをきっかけにちゃんと反省し、謝り、その上で自分が「変化する」ことです。(日本の政治家でちゃんと「謝る」が出来る方はすごく少ない気がします…)

ちゃんと「叱られる」、そしてちゃんと「謝る」。VUCAの時代のリーダーにはそういう資質がこれまで以上に求められるのかもしれません。


私は!VUCA時代のリーダーとして!昨日もMTGを忘れていて15分遅れたことを改めて陳謝いたします!ごめんなさい!!!(←それはリーダーがとかじゃなくてまじで反省しろ

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