「切り離す自己責任」と「つながる自己責任」
こんばんは、uni'que若宮です。
先日、こんなツイートを見かけしました。
あるいは、そのすこし前。
川崎の事件で「死にたいなら一人で死ぬべき」という意見があり、賛否両論が繰り広げられました。正直に言うと、小学生をもつ親としてそれは考えたくもないほど痛ましい事件であったし、自分の子のことを考えると「巻き込まないでくれ」と思う気持ちもよくわかります。
ですが「一人で死ぬべき」という言葉には、すべてをその個人に帰してしまう重圧があるのも事実です。こういった傾向に、日本の、悪い自己責任意識が根強くあることを感じました。
そこで今日は「自己責任」について書きたいと思います。
「切り離す自己責任」
「あなたにも悪いところが
あったんじゃない?」
この言葉は、被害者である女性に責任を問う言葉です。セクハラやいじめにおいて、日本ではこういう言葉が無責任にかけられることはとても多い気がします。
セクハラどころか、強姦の被害にあっても、女性は「そんなカッコで」とか「そんな時間にそんなとこに」とか「二人で食事いくってことは」とか色々な落ち度を探され、「自己責任」を課せられる。
あるいは、こちらの投稿も話題になりました。Patoさんの言葉はちょっと強すぎるところはありますが、「正しさ」の息苦しさを感じる多く人の共感を呼びました。
「僕が不潔にしていて、みんなに迷惑かけてごめんなさい」
これもまた、「自己責任」だ。不潔なのは、自己責任だから、迷惑をかけたら、謝らなくてはいけない。
こういうときの「自己責任」という言葉は「それはあなたの責任だ」という意味で使われます。なにか問題が起こった時、その責任を、その個人に帰する。
これは二重の意味で、社会から「切り離す自己責任」の呪詛の言葉な気がします。
一つに、たとえば女性に生まれたことや、貧乏な家庭に生まれたこと、働けなくなったこと、そういうのは本来、本人の意思とは関係なく、本人がコントロールできず、故に責任はないことなはずです。むしろ、本人を取り巻く社会の構造的な問題であることがおおい。なのに社会から切り離して、本人の責任にしてしまう。
そしてもう一つの「切り離し」は、その言葉を発する人との間で行われます。
人は「それ自己責任でしょ」という時、相手を「自分とは違う存在」と見てその人の間に線を引くのです。
「それはあなたの問題でしょ、自分で解決してよ」
そういって救いを求めた手を引き剥がすのです。そういう意味で「自己責任」という言葉はとても「無責任」に放たれる。「私の責任じゃないわ」と。
「つながる自己責任」
ただ、僕は「自己責任」という考え方がなんでもかんでも悪いとは思っていません。社会と切り離すのではなく、社会とつながる自己責任は良い自己責任だと思っています。
先日、奥田浩美さんとランチをする機会がありました。そこで色々とお話を聞き、僕は一発で奥田ファンになってしまったのですが、どうやったら奥田さんのような人に為れるのか、どんな教育を受けたのか、あまりに不思議でお伺いした所、お父さんの教育がとても素晴らしかった。
詳しくは↓の御本人のブログを読んでいただけければと思うのですが、
この中にもある通り、奥田さんは中学3年生から妹さんと自立して生活するようになり、その時に家計自体が入ったキャッシュカードを渡されたらしいのです。
「二人でその家に住んで学校に通いなさい。」「月々に決められた額の仕送りはしない」といわれ、父親の給料がそのまま入れられている銀行のキャッシュカードが渡された。「必要なお金はおろして使いなさい。ただし、収支報告など、必要な根拠は示しなさい。13歳の妹に胸を張れる暮らしを築きなさい」
まだ中学生(!)ながら、奥田さんはこれによって「自己責任」で家計を考えなければならないようになった。そしてそれによって、社会とのつながりを学んでいったそうです。
一般的に、子供は「お小遣い」をもらいます。その中で欲しいものを買う。そして欲しいものが増えてくると、「お小遣いが足りない!もっと増やして!」とぶーぶーいう。この時、子供は「自分に与えられたお小遣い」という範囲でしかものごとを考えていません。
しかし、奥田さんの場合は違いました。欲しいものがある。それが買えるだけのお金がはいったキャッシュカードがある。下ろせば買えるわけです。
でも、まてよ、と考える。そのお金はお父さんのお給料の全部です。一家の家計の全部です。もしこのお金が全部なくなってしまったら、自分は買いたいものを買えるかもしれないけれど、他のみんなは我慢しなきゃいけない。
「お小遣いが足りない!」という言葉なら、親に無責任に訴えればいいわけですが、そのお金の全部をまかされているわけです。奥田さんは言います。
「お金が足りない!と思ったら県教委にでも申し立てるしかないわよね(笑)」
「自分が使いたいお金」は実は家族のお金と繋がっていて、そしてそのお金はお父さんがつながっている組織の決めごとや、もっといえば日本の社会の構造やその経済と繋がっている。自分の要望だけをいってもどうにもならないのです。
こういった経験から、奥田さんはあらゆる事象を考える時、一見自分だけの問題に思えることや行動も、社会や地球や宇宙と繋がっている、と考えるようになったといいます。
奥田さんにキャッシュカードという形で渡された「自己責任」が、成員として参画する社会や環境に対する責任にまでつなげてくれたのです。
社会とつながっている、ということ
最近、特にSNSでは、「切り離す自己責任」を多くみるようにおもいます。他国や政府や社会や会社や、老人や容疑者や、実に色々なことを批判します。
それを批判する時、「切り離す自己責任」のように、相手と自分は別の存在であるかのようです。しかし、今まさに批判の矛先を向けた”それ”も、自分が選んでいたり、強化していたり、どこかで必ずつながっているものだとおもうのです。
「それはあなたの自己責任でしょ」と言う時、眼の前の相手がそういう状況になっている社会や事情に対して、本当は自己責任があるのです。別ものではない。
「個の時代」と言われます。個の時代は、と「自己責任」をいう人も増えるでしょう。ですがだからこそ注意してほしい。
「個の時代」とは個々が分離された世界ではないはずです。なぜなら「個」がより多く価値を発揮できるということは、個はより多く社会とつながり、価値を発揮する機会をもつ、ということだからです。複業など働き方や生き方が多様化するからこそ、一つの会社だけでなく社会やもっと色々なものとつながっていくことになる。
その逆は「無敵の人」です。
「無敵の人」それは社会とのつながりを失った人です。
個は社会とつながっている、でも「自己責任」はそれを切り離す言葉にも、つながりに気づかせる言葉にもなりえる。
「自己責任」をいう時、誰かを自分から、社会から切り離すのではなく、その人も含め自分も社会とつながっているのだ、と思い出すことが大事なのではないでしょうか。