「自分が殺せない生き物は食べない」というシンプルな考え方。
最近、肉を食べない知人が増えた。
食べられない、のではなく、食べない。
健康上の理由ではなく、
宗教上の理由でもなく、
自分でそう決めたから、食べない。
その選択は流派というか、美学というか、
「ライフスタイル」という表現が最も近い気がする。
肉や魚を食べないのが、ベジタリアン。
それに加えて、卵・乳製品・はちみつなども食べないのが、ヴィーガン。
このくらいの知識はあったが、最近出会った知人の「肉を食べない基準」は、僕の知っているソレとは少し違った。
今日はそんな話。
■食べ物基準と、自分基準
キーマカレーを頼もうとした時だった。
「あ、私お肉食べないんだよね」
彼女と食事をするのは初めてだったから、知らなかった。
単純に好みやアレルギーだと思って
「じゃあ、鯛のカルパッチョはどうですか?」
と聞いたら、大丈夫とのこと。
この時点でベジタリアンやヴィーガンではないんだな、と悟った。
すると、彼女はこう付け加えた。
「あ、でも大きい魚はダメかも。」
混乱した。
こうなると「基準」が気になる。
「大きさなんでですか?味ではなく?」
僕が食い下がると、彼女は答えた。
「自分が殺せない生き物は食べない、って決めてるんだよね。鯛は捌けるけど、大きいマグロとかは無理かなー。」
新鮮な回答だった。
同時に、妙な納得感を覚えた。
それまで僕は菜食主義者がベジタリアンで、完全菜食主義者がヴィーガン、など食べるもの基準で捉えていたが、彼女の回答は「自分」が基準だった。
「面白い考え方ですね。それって名前とかあるんですか?」と尋ねると、「どうだろう?私が勝手に決めただけだから」と彼女をは笑った。
(本当にないのかな?名前ありそうだけどな・・・)
と気になったがその場で調べるのは失礼なので、帰宅後に検索してみた。
■ベジタリアンの語源と真意
調べはじめて驚いたことがある。
ベジタリアンの語源が野菜を意味する「ベジタブル」ではなかったのだ。
ベジタリアン(vegetarian)の語源は、ラテン語「ベゲトゥス(vegetus)」。
ベゲトゥスとは「健全な、新鮮な、元気のある」という意味らしく、ヴィーガンも同じ語源らしい。
つまりベジタリアンやヴィーガンにおける本来の意味は「野菜しか食べない人」ではなかったということだ。
語源の通り考えるなら「自分にとっての健全を目指す人」とでも表現するのが適切だろうか。
そう捉えると、彼女の考え方もしっくりくる。
少なくとも彼女は「ベジタリアンになろう!」と考えたわけではない。
自分にとっての「健全」を考えた結果が「自分が殺せないものは食べない」という手法になり、結果的にキーマカレーを頼まなかっただけだ。
構造にすればこんな感じだろう。
「それはヴィーガンか、ベジタリアンか?」
「その考え方はなんて名前なのか?」
などは世間の基準でしかなく、彼女にとっては「どうでもいいこと」だ。
だから彼女は「私の考え方はベジタリアンなのかな?」なんて考えなかったし、気にもしなかったのだろう。
結論として「自分が殺せないものは食べない」という考え方に名前はなかった。
しかし「自分にとっての健全を目指す人」が広義のベジタリアンだとしたら、彼女はベジタリアンだし、僕もベジタリアンでありたいと思った。