技術としての旅行は、総てビジネスに効く
筆者は、40になるかならないかの頃、とにかく時間に追われていた。
というと、聞こえがいいが、つまりは仕事が全然片付かない状況が続いていた。
時は15年ほど前、まだ働き方改革のような考え方は登場しておらず、土日も仕事に充てていた。
その日曜日も、いつものように自宅で資料作りに勤しむ傍ら、ふとした思いつきで、引っ越しが多かった子供の頃に住んでいた頃の住所や電話番号をいくつ思い出せるか、自分に試してみた。
なぜそのような奇妙なことをやろうとしたのか、今ではわからない。とにかく思い出そうとしてみたのだ。
すると、なんというか記憶に靄がかかったような感じで、ほとんど思い出せない。
まだボケる年でもなし、自分の脳の回転に悲しくなった筆者は、気分転換にウォーキングに出ようと考えた。
普段ほとんど運動をしない身なのに、なぜそんなことを思いついたのか、これまた今ではわからない。とにかく「歩こう」と思ったのだ。
そしてスニーカーを履き、家を後にし、近隣の遊歩道に向かった。
平坦ながら山道を歩くような、自然が感じられる道である。
意識して、早足で土を踏みしめながら歩いた。
程なくして、風が気持ち良いな、と感じた。
周りの木々や花を見れば、それは一つひとつがとても美しく、気持ち良い風とともに筆者を包みながらも流れ去っていく。
20分ほど歩いた頃だろうか、今までは意識することのなかった風景を愛で、自然の匂いを感じながら、もしも自分がロボットであれば、一段性能の良いセンサーを搭載してもらったような気持ちがした。
そこで試しに、先ほどやってダメだった、昔の住所や電話番号を思い出そうとしてみると、不思議なことにどんどん思い出す。
のみならず、子供の頃の情景が、今歩いている自然と同じような解像度で心に湧き上がってくる。
ウォーキングに出る前と比べて、CPUの性能まで上がったような気がして、行き詰まっていた仕事のことも考える。
すると、自分が課題を狭く捉えていたり、先入観とともに考えることによって袋小路に陥っていることがわかった。
その日、それからの仕事が快調に進んだことは、言うまでもない。
読者の皆さんには、このような経験はないだろうか?
なぜこのような作用が起きたのか、当時の筆者は考えてみた。
大きく、(1)運動の効果(2)今まで気づかなかった美しさや、それが次々と流れいく様に触れることによる効果があるように思われた。
特に(2)の方が、自分には大きく影響したように思われた。自然の美しさや気持ちよさを検知したことにより、自分の感覚や認知が鋭敏になった感じがしたからだ。
この時以来筆者は、ストレスを感じたり、アイデアに詰まったりした時には、ちょっとした旅行やドライブに出かけ、じっと風景を観察し、愛で、美しさを感じる、と言うことを心がけている。
今回の日経COMEMOのお題:
に触れ、筆者は上記の経験を想起した。
どんなに経験を積んでも、人間は知らず知らずのうちに近視眼的になってしまうことがある。旅行は、そんな状態から自分を引き上げる技術である、と言う側面もあると思う。
遊歩道の経験から25年ほど経っているが、筆者は現在もそのような考え方で自宅を空けることが多く、カレンダーを見てみたら、月に一度くらいはどこかに出向き、そして近視眼の補正やパッションの補給をしている。
先日は、敬愛する作家 筒井康隆さんのエッセイに、筒井さんが旅した先として紹介されていた新潟県の旅館に出かけてみた。江戸時代から伝わる古民家を宿にした、それは風情のある建築である。
繰り返し何度も読み込んだテキストに描写されていた建物や景色が、眼前に広がる喜び。
自身の想像力ではとても埋められなかったリアリティや、高い密度のディテールに触れた驚き。
宿からほど近い公園を歩けば、まさにこれから咲かんとする、ピンク色の桜蕾。
20年越しの親友との邂逅のような時間を過ごしながら、それまで考えあぐねていた、ある仕事に関する着想が閃くと共に、その時仕事などから感じていたフラストレーションが些事に感じられてきた。
まさにビジネスに効いた旅行。
ところで、多忙であるほど、旅行には行きにくい。チームリーダーのような責任ある立場になれば「自分の不在が意思決定の遅延につながり、メンバーが困るのではないか」との感覚から、なおのこと。
しかし、責任ある立場であるほど、自身の状態を鋭敏に保ち、観察眼やジャッジメントの品質を保たなければならない。
ので、たとえ数日仕事を離れることになっても、自分を整える意味で旅行に出る、と言うのは、責任ある行動である、と筆者は考える。
以下の記事は、筆者が若い頃、頼りにしていた仕事のパートナーが、プロジェクトの佳境に旅行に出かけて驚いた時のエピソードが記してあるので、ご興味の向きはぜひご一読を。
と言うことで「ビジネスに効く旅行とは何か」との問いには、「すべての旅行は、それにより感覚に刺激をもらい、美しさや快さを感じられる限り、仕事の役にたつ」と答えたい。
読者の皆さんは、どうお考えだろうか?