自然に文化を加える環境政策ー日本と欧州で始まった「意味づけ」を考える
フェルナン・ブローデルというフランスの歴史学者が書いた『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』という本があります。ブローデルは分野ごとに細分化した歴史ではなく、全体像をそのまま掴もうとする人です。件の本は日本語でも全6巻で、日常性の構造という最初の編の2冊だけでも二段組(!)で合計900ページくらいあります。すごい本だとは分かっていても、1人ではなかなか手を出しづらいボリュームです。今、この本を仲間内のオンライン読書会で読んでいます。
ブローデルは、15-18世紀の特徴は世界で人口が猛烈に増えたことだと指摘しています。疫病や戦争によって多数の死者があろうとかように増えたのは、第一に医学や衛生の発達によるとは説明しがたい。なぜなら人口の急伸は欧州だでなく世界で共時的に起こったことだからです。彼は気候変動が要因のすべてと過度に単純化することは控えながら、以下のような分析をしています。
巨大な自然力にたいして人間が先天的に脆弱なのを意に留めておこう。《暦》はー好意的であろうとなかろうとー人類の支配者なのである。<旧制度>経済を研究する歴史家たちは、継起する豊作・平年作・凶作がこの経済のリズムをなしているのを認めているが、これは論理に叶っている。(中略)こうして気候でもって説明をつけたり、天の責任を問題にしたりするのを、もしも昔の人たちが聞いたとしても、彼らはさして面喰いはしなかったであろう。そう考えると、微笑ましい思いにもなる。なにしろ彼らには、個人や集団の運命であれ、もろもろの病気であれ、地上のあらゆる事象をば、とにかく天体によって説明したがる傾向があった・・・。
近代科学の発展と共に、人が自然のなかで生きる古くからの知恵が神話や伝説のなかだけに閉じこめられ、場合によっては迷信扱いすることで排除される傾向にありました。20世紀の後半以降、地球環境がグローバルレベルで人々の関心の対象になりはじめてなお、(予測していなかった天災に悩まされながらも)常に科学的エビデンスだけがすべてであるという姿勢はあまり変わりません。そうした文脈の延長線として、環境問題はテクノロジーによって解決されうる、あるいは逆に生活者のマインドをがらりと入れ替えることに期待。これら2つの次元だけに収斂されがちで、どうも行き詰まり感が漂います。
これに対して追加すべきアプローチはないのでしょうか。最近の経験と思ったことを以下に書きます。
日本の環境政策が新しい方向を見始めている
唐突ですが、12月5日、Migakibaというオンラインイベントに登壇しました。Migakibaについて、サイトで趣旨の以下の説明がされています。
migakiba(ミガキバ)は地域を超えて多様な専門性・背景を持つチームが集い、地域の資源や文化をともに探索し磨き合うことで、これからの循環を考える環境省主催の実践型研修プログラムです。
2020年度は独自の自然環境や文化的・歴史的背景を持つ5つの地域を舞台に、それぞれの土地に根ざし先駆的な活動を実践する現地事務局、講師陣による伴走のもと、新たなプロジェクトを構想していきます。
かなり面白いアプローチです。経済産業省の地域産業振興的な話ではなく、文化庁の伝統文化保護の話でもなく、環境省のプログラムとして自然と文化を対象としているのです。恥ずかしながら、これまで一度も環境省のサイトを見たことがありませんでした。それで自然と文化という名のつく局や課があるのかと思い事前にチェックしたら、そういう名前が見つからないのです。素人考えで環境省とは制御的なシステム(やや押しつけがましい習慣の拡散も含め)やテクノロジーイメージの役所だと思っていたので、文化や歴史と紐づけて資源循環とはなかなかやるなあと思いました。
先のブローデルは、18世紀のアムステルダムの商人にあったような資本主義、市と結びついた生産および交換のメカニズムである経済、その下部にある不透明な自給自足や小さなサイズの交換などの活動からなる物質生活とでも呼ぶべき三層に世界を分け、歴史を「まるごと」理解するために、この物質生活を観察する大切さを強調しています。言うまでもなく、この物質文明は「天の責任」に左右されることが多いのです。
Migakibaというプロジェクトは、まさしく、この物質文明のレイヤーを対象としています。丸ごとへの意欲が強い証です。数値的に分かりやすい分野だけに手をつけるのは、効率を優先した怠慢な態度ですから、この丸ごとには好感がもてます。また環境や資源の問題がまるごとではなく、一部の専門性に依存する事柄であるはずがありません。
それから、日本の5つの地域の活動テーマも目を引きます。福島県いわき市「風景を耕す」、長野県上田市「暮らしを育む創造性」、奈良県香芝市「みんなの郊外」、山口県山口市「土着のサイエンス」、長崎県五島市「土地の記憶」とあって、それぞれの地域で独自の活動をされている方(←これが抜群に面白いことをやっている方ばかりなのです)が中心になり、「土地を磨き合うこと」でサステナブルなあり方を探る人材を育成するというのです。
ぼくの役割は上記プロジェクトをヨーロッパ視点から応援することだと理解し、何を話そうかと考えた末に以下のような内容にしました。
ヨーロッパのネタで援護射撃できる見方はどれか?
ローカルが他のローカルと尊重し合いながら、お互いにコラボレーションする学びのネットワークはこれまで以上に重要になっています。なぜならさまざまな地域で中央集権型から自律分散型への移行が叫ばれるなか、ローカル間のコラボレーションの方法をさらに洗練させていく必要がでてきたからです。小さなサイズが大きなサイズの中央を介さずに関係が持てるためのロジックとツールに習熟する、ということですね。もちろん、実践にもつながり資源循環の例となるのが望ましいです。以下を出発点にしました。
1、EUにはInterregという地域間がボーダーを超えて学び・コラボするプラットフォームがある。その一つにInterreg Central Europeという(西側と経済レベルや社会参加意識にも差がある)旧共産圏も入れた9か国が参加しているプロジェクトがある。
2、重点項目はイノベーション、低炭素、自然と文化、輸送の4つ。
3、自然と文化への考え方は、ユネスコ無形文化遺産条約(2003年)に基づいている。ローカルにある文化はそこの自然環境と密接な関係をもっている。また伝統工芸技術も同様だ。
4、セラミックはどの地域にもあり、地域間協力のための共通言語として絶好の素材である。結果、セラミックを巡るネットワークは多元的に複数展開されている。
中央ヨーロッパの地域間コラボレーションを例に出しましたが、殊に「自然と文化」が重点項目に入っており、それがユネスコ無形文化遺産条約に基づいているのは肝かと思います。それぞれのローカルには、ブローデルも言及するように、自然や万物への付き合い方の知恵という無形文化があります。これにはセラミックを素材としたような伝統工芸技術にもあります。単に精神性を重んじた伝統文化を維持するという守りではなく、ここには自然環境を含めた社会のサステナビリティを視野に入れた積極的な姿勢があります。
文化遺産として人類の歴史の多様性を保護してきたことが、今の時代のような方向を見失いがちな時に、まさしく力を発揮することを示唆しています。環境政策が文化政策と無縁と思っていたら大きな間違いです。
イタリアの田園景観法やスローフードの原産地名称保護制度
次により小さなサイズの例として、イタリアネタを紹介しました。
5、イタリアは1970年代から都市の歴史地区の再生がはじまり、1980年代に入ると、マイナーな小都市にもそれが波及した。一方、1985年には田園の風景を対象にした景観法が設定された。
6、風景はローカルの文化アイデンティティのために重要な要素である。
7、1989年、スローフード運動がはじまり、都市と田園の距離が接近した(産地直送マーケットなど)。食文化のイノベーションによって生活スタイルが変わった。
8、今世紀にはいり、スローフードは私的・原産地名称保護制度をつくり、世界各地のローカルの小規模農家や工房の技術を守る活動をしている。インバウンド需要を第一優先にしない方向を促進。
9、ローカルの産業資産に徹底して拘り、かつ愛される風景に拘り、スローフード的な食文化をすべて実現しているのが、ウンブリア州のソロメオにあるトータルファッション企業、ブルネッロ・クチネッリ。
ローカルで生きることは、小さなサイズを強みにすることでもあります。また閉鎖的に留まることではなく物理的に遠い距離のローカルともつながりをもち、ありがちなヒエラルキーの構造(小さな地域がそこを包むより大きな地域の支配下に入る構造)に嵌らないことで、オリジナリティある存在感を発揮するということでもあります。そのためには、都市も地方の田園地域も、同等に風景をケアしていくことが望ましいです(美しくないものは撤去も辞さない)。引きこもりの暗喩ともなるゴミ屋敷のような環境からは、他と繋がる力が生まれにくいですよね。
良い風景に食文化が加わると、経済の風景も変わっていきます。食生活のすべてを大手流通業に頼ると、自分の身近にある田園風景に親近感をもたなくなります。したがって、田園の風景への姿勢を変える大きな契機に、食文化へのコミットが有効なわけです。というか、そもそも有効かどうかより、美味しいものを食べたいなら自ずとその方向に向かいます。要は審美性が鍵になります。そうすれば頭で原産地名称に拘るのではなく、舌がいや応なしに原産地名称に拘るはずです。
とは言うものの、そう善意や舌だけで世の中が動かないのも確かです。
スローフード財団の私的・原産地名称保護制度は、EUや各国政府の公的・原産地名称保護制度に対抗したものです。(ピエモンテ州の小さなブラという街にある)フローフード財団は、欧州委員会のあるブリュッセルに複数のロビイストを駐在させ、政策プロセスをフォローしています。そういう彼らですから、私的制度の足を引っ張らないように欧州委員会から了解をとっていますが、それでも行政側は大企業寄りの制度改正を試みることがあります。
例えば、フランスのカマンベールチーズに対して、これまで高品質の生乳にのみ原産地名称を与えていましたが、2021年より低温殺菌のミルクも含めるように2018年にフランスの行政はルール変更を行いました。これに対してスローフード財団は意義申し立てをしています(←ここは拙著『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』に書いてあります)。だから、それなりに「暗躍(!)」はしないといけません。
問題解決だけでは文化を作れない。意味形成が鍵
最後、文化をどう作るかです。
問題解決は常に必要で、問題解決が不要な時など永遠に来ないはずです。ただし、人間は問題解決をするために生きているのではなく、生きている意味を実感するために生きています。我々は資源循環のために生きているのではなく、そこで感じる意味のために生きているわけです。
かといって、抽象的な、あるいは感覚的な意味だけを頼りに生きるわけでもありません。即ち、問題解決と意味形成という2つの軸で人は生きており、この2軸をどれだけ頻繁に往復するかが問われているのです。前述したように、環境問題に対する姿勢は、往々にしてドライなテクノロジーやコントロールという側面ばかりを見るか、日々の心構えがすべてというマインドの正当化に安住するとの2つのパターンになる傾向があります。たまさか、その日々の新しいロジックを少しでも広げようとすると「うるさい奴」と言われて頓挫する羽目になります。
どうしても、この2つの中間領域にロジックが確立されないと前進しづらいのですが、そのためには問題解決のそれぞれに意味付けをする習慣をもつことだと思います。そして、その習慣の集積が文化をつくっていきます。文化とは建築物のように設計し、その通りにできるものではないです。ただし、その習慣の集積を生むような条件設定は可能です。
ブローデルの言う物質文明に生きる古の人も、そうして神話や伝説を残していったはずです。そのなかに「天の責任」に帰するだろう厄介なことも、どう乗り越えてサバイバルできたかが示されていたわけです。今時の語彙を使えば、ストーリーテリングの熟練者が次世代に知恵を継承する術を考えたのでしょう。
なにせ次世代を担う人たちに、不味いワインなんかに馴れて欲しくないですからね! ↓↓↓。
農業大国のフランスでは、温暖化による農作物の収穫期の乱れや不作、家畜管理の難しさといった問題を多くの人が実感している。輸出品としても重要なワインはボルドーやブルゴーニュで、高温のためにぶどうの成熟が進みすぎ、繊細な味わいを出しにくくなったといわれる。
繰り返しますが、風景にせよ、食にせよ、審美性に基づいた伝承が強い動機を発揮し文化をつくるのです。これがサステナブルな社会を維持する基本です。
写真©Ken Anzai
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