私たちは、どうしたらよかったのだろうか
新型コロナウイルスに翻弄される我が国の状況を見ながら、太平洋戦争でもこの国はこうして負けたのかもしれないな、と思っていたところにこの記事が出た。
すでに読んでから20日あまりが経つが、その間ずっと考えていたのは、果たして自分がどうしていたら、こうした状況になることを防げていた可能性があるのだろうか、ということだ。
自分はすでに50歳も過ぎ、人生100年時代であるとしてもすでに折り返し点を過ぎた年齢だ。自分ではまだ若いつもりであり、社会の中で重要な決定をしたり影響力を持つようなポジションにはまだないという感覚があるが、一方で自分が若かった頃を考えれば、50過ぎの人間が今の社会の在り方に対して何の責任もないと言えるのかというと、そんなことはないとも分かっている。
では、自分の半世紀を過ぎる人生の中で何を間違ってしまったのか、あるいはどうしていれば、このような社会状況にならなかったのだろうかということを、このところずっと考えている。
考えれば考えるほど明確な答えが出ないところに、この問題の複雑さ難しさを思うが、おそらく一つ間違いがないのは、教育に問題があるということだろう、というのが今のところ思いつくこと。
儒教的な意識が根強く、長幼の序や年功序列が重んじられるこの国で年長者の誤った判断に対して No が言えない、言ったところで年長者に弾かれて終わるだけになるのだとしたら、弾かれても生きていけるだけのちから(それは知力や財力など様々なものが考えられるが)を身につけているか、そうでなければ No を言っても弾かれず可愛がられるだけの人間力が求められるだろう。そうした能力を育む教育を、この国の、特に若い世代に対して施してきているのかということは改めて考えてみたいところだ。
そして 記事で指摘されている「根拠なき楽観的思考」は、いわゆる「ビッグピクチャー」を描く力、 全体を俯瞰する力のなさにも起因しているのではないかと感じている。それは、情報を適切に収集し、それを編集して全体像を理解する力の不足と言って良いかもしれない。
こうした全体を見る力をつける教育がなされていればもう少し、個別最適や部分最適に陥らずに、全体として目指すものが何で、そのために何を優先するべきか、ということを判断できるようになるのかもしれない。
例えば、コロナワクチンの接種順位について、高齢者が最優先とされ、それ以外の人は医療者を除いて全くワクチンの接種の機会がないことについては、十分に議論が尽くされたのだろうか。私がそうした議論を追いきれていないだけなのだろうか。
新型コロナウイルスに感染している(かもしれない)人を日々搬送する救急隊などの人たちや、コロナお構いなしで不穏な状況となっている国境の警備にあたっている人たちへの優先接種が、この国では行われていない。これは国民的合意にもとづくものなのだろうか。
ワクチン接種開始当初においては、余ったワクチンを、未接種者はいくらでもいるのに接種券を持った人がいないという理由で捨てる事態が相次いだ。
これに対して、河野大臣が、余らせることなく接種券がない人にも打つようにと述べていたが、実際に現場の医師からは、大臣がそういったところで直接の監督者である自治体がそれを許容しない限りは接種することができないと、 Twitter での反応を見かけた。これも、一刻も早く、高齢者に限らず一人でも多くの人がワクチン接種を受けることが、結局は高齢者をも守ることにつながる、という全体像への理解の欠如が引き起こしている問題の一端のように思う。この観点での集団免疫の議論は、日本では非常に乏しいと感じている。
大規模接種も始まったが、会場にこなかった約1割の予約者のワクチンがどうなったのか、記事は触れていない。
思い起こせば、昨年時点では、「若い人が動き回るから感染が広がるのだ」といった発言が政治家の口から出ていたが、もし本当に政治家がそう思うのであれば、動き回る若者に、最優先とは言わないまでも高齢者と同時並行にワクチンを接種して感染の拡大を防ぐのが道理なのではないだろうか。
感染症の専門知識に基づいて、どの接種順番が正しいのかは私には分からないが、残念ながら、高齢化が進む我が国において、政治家の多数が高齢者であり、彼らに対して票を投じるのもまた高齢者であるということが、起きている事態を最も合理的に説明する理屈に思われる。高齢化した民主主義国である日本にとっては、高齢者にとって都合のいいことが最も通りやすいポピュリズム的な選択ということになる。それが、ビッグピクチャーを描いたときにも合理的な選択であるかどうか、だ。
高齢者を一概に責めるつもりはないし、私もそう遠からず高齢者の一員となる年齢なので自戒の先取りを込めて言うのだが、高齢者であっても、日本の国全体を見て、(それでなくても数少ない)若い人が健康を維持しそして経済を回さなければこの国の未来はない、ということを理解しなければならない。理解するだけでなくそれに従って様々な意思決定を行うことや、高齢者にだけにおもねるような政治家に票を投じないといったことも、今のような日本の状況を少しでも良くしていくために必要な行動なのだと思う。
自分の過去を振り返って反省することのもうひとつは、そうした投票行動をあるべき形で行っていたかどうかであり、棄権したところで、実際にはなんの効力も発揮しない、という現実である。仮に、応援したいと思える人がいないとしても「最もマシ」な人に票を投じなければ、今の民主主義のルールでは始まらない。
過去の自分の行動を反省することも必要だが、過去の行動を変えることはできない以上、その反省を生かしてこれからの行動を変えていく必要があるし、我が国が民主国家なのであれば、それを変えられるかどうかはやはり、非力ながら私たち一人一人の力にかかっていると言うしかない。
他国に比べれば日本はマシ、ともよく言われるが、他国との比較ではなく、記事タイトルに従うなら「80年変わらない」失敗を繰り返す自国の問題を掘り下げて考えるいい機会を新型コロナウイルスがもたらしてくれた、と考えるべきなのだろう。人間であるとしたら、80年も同じ過ちを繰り返す人とは、どういう存在だろうか。
本稿を書くか迷ったが、月をまたがる前に。あと1時間もしないうちに訪れる来月は、今月よりもよい1か月でありますように。