うちには「元家族旅行」があります。
長い梅雨が明け、ようやく夏が来た。
夏といえば、夏休み。
夏休みといえば、旅行の季節だ。
今年はなかなかハードルが高いが、
僕も例に漏れず、夏の家族旅行を計画している。
と言っても、正確には「元」家族旅行だが。
今日はそんな話。
■家族旅行への固定観念
僕が離婚してから、今年で5年目になる。
夏の元家族旅行も、今年で5回目だ。
僕らにとっては恒例行事だが、周囲にこの「元家族旅行」の話をすると大抵驚かれる。
「泊まりなの?」 → 大抵2泊3日くらいです
「同じ部屋なの?」 → そうです
「気まずくない?」 → 普段からよく会ってますし、全然気まずくないです
と、恒例の受け答えをした後は決まって
「そんなんだったら、再婚したらいいのに」
というセリフで締められる。
そういうことじゃないんですよ。
と、ここからも恒例の押し問答がはじまるわけだが、根底にあるのは常に「離婚する=家族旅行がなくなる」という固定観念だったりする。
いつからそんな決まりになったのだろうか。
■離婚したら、親じゃなくなる制度
僕らの元家族旅行に皆が抱く違和感。
その根底にあるのが、日本の単独親権制度だ。
単独親権制度とは、結婚している間は父母の両者が子どもへの親権を持っている(共同親権)が、離婚すると父母のどちらかしか「親権者」になれないという民法上の制度。
端的に言うと、離婚すると父母のどちらかは親としての権利を失うという制度だ。
しかしこの3月、日本の単独親権制度に対して違憲訴訟がはじまった。
この訴訟では、単独親権制度は、法の下の平等や、幸福追求権を保障する憲法違反で、子育てする権利を侵害しているとして、国に損害賠償を求めている。
そもそも、単独親権を制定する日本の民法は明治時代の1896年に制定された「家制度」をベースにした古い制度だ。日本の民法の基礎になったドイツでも、1998年には離婚後の共同親権が法制度化されているし、欧米では離婚後の共同親権を認める方向にシフトしている。
そう考えてみると「離婚したのに旅行にいくなんて変じゃない?」という考えは、明治時代の価値観を引きずっているとも言える。
■ピラミッド型家族の終焉
ではなぜ、そもそも単独親権制度が存在するのか?
一説には「離婚に対する抑止力になる(親権をエサにすれば離婚を防げる)」とそのメリットが語られるらしいが、昨今の離婚率を見ていると効果が出ているとは言い難い。
やはり話は「家制度」に戻る。
戦前の民法では家父長的な側面が強く、一家の主人(あるじ)は父親だった。それが戦後、男女平等の考え方が広まり、一家の主人は男性でも女性でもOKとなったが、家族のピラミッド構造自体は変わらなかった。
つまり「家とは1人の絶対的リーダーが支配する」という価値観は保たれたのだ。昨今話題になる夫婦別姓が認められないのも、この考えが根底にあるからだ。
その結果、家族が分かれる離婚をした場合、子どもの親権も一家の主人(男女問わず)に紐づけると捉えたのが単独親権制度の背景の1つだろう。
しかし今、そんなピラミッド構造が変わろうとしている。
家族を支配関係のピラミッド構造で捉えるのではなく、子供を中心とした逆ピラミッドの構造で捉えてみる。
家制度を守るためのではなく、子供を守る構造で捉え直してみる。
そんな変化が、先の訴訟と、共同親権制度の本質だと僕は思う。
■シングルマザーをシングルにしない共同親権制度
実は現在、日本でも共同親権制度の導入は検討されている。
この制度が導入されれば、「子供を育てる権利」がまずは元家族にも認められることになる。元家族でも、正式に子育てに参画することができるようになる。
当然、元家族旅行にも違和感がなくなる。
現在、シングルマザーと言えば「1人で子供を育てる人」という印象が強く、それ故に「1人で育てなきゃ」と精神的に追い込まれることも多い。
共同親権制度が導入されることで、まずはその枷(かせ)が外れる。社会にもその認識が広まる。それだけでも効果は大きい。
もちろん、共同親権のデメリットとして語られる「二重生活やダブルスタンダードによる子どもの精神的な負担」を考慮する必要はあるが、本質的には親だけが子どもにとってのスタンダードになってはいけない。
母親のスタンダードとも、父親のスタンダードとも合わなくても逃げ場がある社会であってほしい。
綺麗事かもしれないが、自分の子どもだけでなく、様々な環境下の子どもを守るための制度を社会全体で考えらえる世界であってほしい。
このnoteも微力ながら、そんなきっかけの一助になればと思う。
参考にさせていただいた記事
ベリーベスト法律事務所 弁護士コラム 離婚・男女問題SOS
みどり共同法律事務所 コラム「単独親権制」の正体