日本の「男と女」の歴史的な関係性
男女不平等な国ほど出生率が低い?
一部の偏ったメディアが金科玉条のような使うジェンダーギャップ指数(日本が125位といういうやつ)で146ヶ国中146位と最下位(男女格差が世界一)のアフガニスタンの2021年の合計特殊出生率は、4.64で世界の15位ですが?
こういういい加減な嘘は本当にやめてもらいたい。
当然だが、別に男女不平等が是だと言いたいのではない。そもそも長い歴史において男尊女卑の権化みたいな欧州諸国がよく言えたものだと思う。
古代ローマ帝国時代において、女は男の所有物として換算され(人間ではなく物)、たとえば人の娘を殺害したとするならばその犯人は殺人罪ではなく器物破損の罪となった。是非の問題ではなく歴史的な事実である。
だからこそ、長い間、欧州キリスト教国家において、女性には財産権も遺産相続権もなかった。建前上「財産は夫婦共有である」とか言ってるが実質管理権は夫にしかなかった。
離婚の自由も男にしかなかった。子を産んだ母親は大切にされたが産めない女は簡単に離婚追放された。なぜなら、遺産相続人、労働力や兵士を生産できないからである。
それを日本が「西洋に追いつけ。富国強兵だ。産めよ殖やせよ」と真似したのか明治になってからの明治民法である。この明治民法で実質妻の財産権は剥奪された。剥奪されたというからには、江戸時代まで男女関係なく個人の財産権は認められていたのだ。
時代劇でよく「博打の借金のカタに女房の着物を質に入れる」という演出があったりするが、あんなことを実際にやったら夫婦といえど窃盗罪になる。それくらい個人の財産というものは夫婦といえど別物だったのである。
明治維新がなって間もない頃、維新政府は人材不足で、全国に政策の献策として「建白書」を求めた。百姓だろうが、誰であろうと政府に政策を提案できるとした。
その時、元米沢藩の下級武士宇加地新八は25歳のときに進歩的な憲法草案を建白している。立憲君主制、議会の設立などこれが日本最初の憲法草案と言われているが、その中で新八は「男女同権の選挙権」を掲げている。
後に制定された第日本帝国憲法では、その案は採用されず、男だけに与えられた選挙権だが、それは欧米列強の猿真似をしたからだ。当時の日本人からしたら、男女の権利は一緒であることがいかに普通だったかの証でもある。
日本の男尊女卑は明治維新の欧米輸入品なのである。
もちろん、日本も貴族や武家において家父長制度はあった。しかし、それは最大でも人口の8%程度の階層の話であって庶民全体がそうだったわけではない。
日本において女性がどれだけ尊重されて自由だったかは、日本人だと当たり前すぎてわからないかもしれないが、戦国時代の宣教師ルイス・フロイスの日記を見ればわかる。
「欧州では」と書かれてあることが当時の欧州の普通だったのだ。
同じようなことは幕末に開国した際に来日した多くの欧米人も書いている。
1870年来日した米国人グリフィスは「日本の女は表向き男に服従しているように見えて、実際は気転・言葉・愛嬌などで男を支配している」と鋭い観察をしている。
「かかあ天下」という言葉があるが、これも江戸時代から言われている言葉である。
江戸学の祖三田村鳶魚によれば「亭主が未明から棒手振りで金を稼いでいる間、女房達は寄せ集まって亭主を甲斐性なしと罵り合い、仕事から帰った亭主にあれせよこれせよと頤使し、まるで女房が主人で亭主は下男のように扱われている」と書いている。
どこかで見た風景だと思えば、昭和の「亭主元気で留守がいい」というCMのようだ。
そもそも令和の現代でさえ、夫婦の6割は妻が家計を管理し、夫は小遣い制である。家の財産の実質差配権は妻にある。
そもそも旧約聖書のアダムとイブの記述からして日本人は眉をひそめることだろう。女のイブは男のアダムの肋骨から生成されたとある。キリスト教に限らず一神教の女性観とはそんなもの。
日本における最初の男神・女神であるイザナギとイザナミは最初から夫婦になるべき男女として天から使わされたことになっている。決してイザナギの一部がイザナミになったのではない。
それどころか、最初のプロポーズは男のイザナギが恥ずかしがってモジモジしていたので、じれたイザナミの方から声をかけたという記述まである。結婚の主導権は女というのもなかなか。
妻のことを「カミさん」と言うが、これも元々妻は「山の神」という意味である。だから怒らせると怖いというものだ。
今、NHKで人気の朝ドラ昭和初期を舞台とする「虎に翼」において、主人公の寅子が歌う歌の歌詞は以下のようなものだ。
うちのパパとうちのママと並んだ時、
大きくて立派なのはママ
暴れて怒鳴るはいつもママ
ハゲ頭下げるはいつもパパ
うちのパパ コブが出る
うちのママ ツノが出る
この歌には元歌がフランスのシャンソンなのだが、歌詞は元歌と日本のとでは違っている。
元歌の最後はこうなっている
鬼のいぬ間の~ということかもしれないが、ずいぶんとフランスの夫婦は寂しいものだと思うのである。
一方、日本の歌の最後はこうだ。
どんなにガミガミと口やかましく言って、時には胸倉つかんでパパを振り回すようなママであっても、それは家族の共同経営者として真剣であるがゆえであり、いがみあっているわけではなく、パパが嬉しそうな時はニコニコとえびす顔になっているというのが、夫婦としての在り方としてよくないだろうか?
日本には日本人としての男女の関係性があるという歴史的・文化的背景は知っておきたいものです。
そもそも不平等は男女間だけにあるものではなく、すべての人間の間において存在する。繰り返すが不平等を是とはしないが、残念ながら不平等が存在するからこそ、人間は互いを思いやり助け合うものではないだろうか。