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500年つづく「まち」の設計図

「ピースマーク」のTシャツがカッコいいと言われた時代があった。今、そのTシャツを見たら、どうしてこれが流行っていたんだろうと思ったりする。昔流行っていたものを、時を経て見るとカッコ悪いと感じ、もう何年か経ったら今度は「このTシャツ、いいね」と感じたりする。人の感じ方は刻々と変わる。

車もそう。新しい車を買って10年も乗っていたら、「古い車に乗っているね」と言われ、また5年も経ったら、「まだ動くの?ボロい車に乗って」となるが、さらに10年も経ったら、「クラシックだね。もう何年か経ったら、すごい値段になるのとちゃうの」となったりする。時間軸のなせるワザ。

車を持っている人のなかには、新しい車が発売されると、「いいなぁ、素敵だね」と、3年に1回、新車に乗り換える人がいる。“古いものはダサく、新しいものがいい”という空気観はかつてほどではないが、いまも根強い。

結婚もそう。長年寄り添っていても、こんな人と結婚するんじゃなかったと思ったり、なにかのきっかけで、この人と結婚してよかったわと思ったり、人の心はころころと変わる。人の価値観は、本当に移ろいやすい。

街の中のストリートフラッグも気になる。ヨーロッパではビルや街路に溶け込ませた装飾として演出するのに対して、日本は広告宣伝として、目立たそうとして、街と統一性がないフラッグで、街並みを汚すことがある。フラッグならすぐとり外しはできるが、看板や建築物、建造物のように街や暮らしのなかに組み込むハードウェアに、このような「移ろいやすい」価値観を盛り込みだした。インバウンドで注目されている街もごちゃごちゃして、おかしくなっていく。

オランダの街並みは美しく統一感があって、まるで「絵」のようで日本人にとっても人気がある。オランダの人に「建築するにあたって、なにか規制しているのか?」を訊ねると、「“この街はこうするのだ”とみんな思っている。建築コストが新しいビルをつくるよりもかかるが、古いものを活かすことは当たり前だと思っている」と聴いた。旧の本質を活かして新の機能性と融合して古いものを現代につないでいる。日本のまちづくり屋は「ガイドライン」という名の規制をしがちだが、オランダは「そうするのがいい」という価値観で、みんなが自主的に街を残そうとしている。

日本もかつてそうだった。飛騨高山や三重亀山の関宿や奈良今井町などの日本的街並みなども、何度も何度も新しいものにしたいという動きがあっただろう。「防災」対策としてまちの構造を変えるインフラ改造の動きは当然あっただろうが、室町時代や江戸時代に、こんな家はいやだとか、こんな屋根にしたらどうかとか、隣の街のあれにしたほうがいいのとちがうかという声もあっただろうが、その時代その時代の「判断」で、少しずつ手を加えつつ、何代何代もそこで働き暮らしを重ねていって、まち全体に馴染ませていき、今につないできた。

そのまちのなかに、暖簾を守っている店がある。70年代80年代の空気観では「古めかしい」と言われ、90年代になって、「老舗はいいね」という空気観になった。和菓子屋だから和菓子をずっとつづけるのがいいのか、それとも新しい商売に変えたほうがいいのではないかという各時代の店主が「葛藤」をのりこえ「判断」してきた店の数々がまちを構成している。

まちには、旧も新も必要である。老舗料理店や菓子店、道具店など「ずっとつづく店やモノ、コト」に、「いつもの言葉遣いや雰囲気、姿勢に安堵、安心、心の拠り所」を覚えるのに対して、「新しいレストラン、パンショップ、雑貨店」には新たな発見、刺激、インスピレーションを受ける。このようにまちは旧と新を絶妙なバランスで混じりあわせながら、代々とつないできた。しかしその絶妙ともいえる「バランス」がとみに崩れだしている。

モノづくりにしろ、まちづくりにしろ、この数十年、「古いものはあかん。なんでもかんでも、新しいものがいい」という価値観がつづいている。さらに最近、安全だとか安心だとか緑だとか当たり障りがない、みんなに『いいね』といってもらえるだろう無難なアイテムを取り込みがちになっている。だから面白くない、だからすぐに消えてしまう。そういうモノ、マチが増えていく。


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