知っておくべき事実・東京大空襲とその日に起きた奇跡と悲しみについて
インタビュアーが「(東京大空襲は)日本人なら誰でも知ってることです」なんて言ってますけど、知らない人は多い。日本人こそ知っておくべきこと。
1945年3月10日午前0時7分…。325機のB29爆撃機による、東京大空襲が開始されました。下町を中心として死者約10万人ともいわれます。東京市街地の東半部、実に東京区部の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失しました。
あの空襲を体験した人たちも徐々に減っていっていますが、その方たちが亡くなっても、私たちは「言葉で語り継いでいく」役割と責任があるし、知っておくべき事実なのだ、とそう思います。
そして、あの日、起きたこんなお話もあります。東京大空襲に巻き込まれたある婚約者の二人(利夫さんと智恵子さん)のお話。
こちらは、昭和17年に撮られた、利夫さんと智恵子さんの写真です。しあわせそうですね。二人が出会ったのは、昭和16年の夏、図書館でだそうです。利夫さんの夢は、故郷の福島に児童図書館を作ること。しかし、そんな夢は戦争によって打ち消されてしまいます。
利夫さんは、1945年3月8日、特別に休暇をもらって、まず福島の実家に帰郷し、智恵子さんとの結婚の許可を両親にもらいました。翌3月9日、彼は東京の智恵子さんの家を訪ね、その報告をしています。二人にとってその夜は、結婚が決まったとてもうれしい夜だったことでしょう。利夫さんは、9日の夜は自分の親戚のいる目黒に泊まりました。
しかし、日付がかわってすぐ、空襲によって東京が焼き尽くされます。
智恵子さんの無事を心配する利夫さんは、まだ夜が明けないうちに目黒の親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと徒歩で向かいます。同じ時、利夫さんの身を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に歩いて向かうのです。携帯電話もない時代、二人が出会える確率なんてほぼありません。
しかし、二人は、途中の大鳥神社のあたりで、偶然にもバッタリと出会えたのです。
そんなことあるんでしょうか!なんという運命の導き。奇跡としかいいようがありません。
そうして互いの無事を確認して喜び合った二人ですが、利夫さんはすぐにも東京を離れて大宮に帰らないといけません。任務があるから。彼は、陸軍の航空志願兵で、特攻隊員だったからです。せめて大宮まで一緒にと、思ったのでしょう。二人は一緒に国電に乗りこみます。
ところが電車は、空襲のあとで避難する人々であふれかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子さんは途中で気分が悪くなってしまいます。池袋駅で利夫さんに電車を降りるよう促されたのでした。そこで二人はお別れをします。
池袋…そこが二人の最後の別れの場所となりました。
彼はこの1か月後、4月12日に知覧から出撃して還らぬ人となりました。利夫さんの名前は穴澤利夫。特攻によって二階級特進し、穴澤大尉として祀られました。特別な休暇とは、出撃前の最後の休暇でした。
なぜ確実に死ぬことがわかっているのに利夫さんは、智恵子さんにプロポーズしたのでしょう。死ぬからこそ最後の一瞬でもいいから一緒になりたい。そういう思いです。
東京大空襲の裏では、こういう物語があったのです。
穴澤大尉は、出撃の際智恵子さんの女物のマフラーを巻いて行きました。特攻の写真で、今に伝えられているあまりにも有名なこの写真。
桜を振って見送る知覧高女の女生徒たちに、手を振り微笑みながら出撃してゆく人こそ穴澤利夫大尉です。
利夫さんの遺書が残されています。彼の婚約者である智恵子さん宛てに書かれたもの。全文ではなく一部抜粋してご紹介します。
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二人で力を合わせて努めて来たが,ついに実を結ばずに終った。 希望を持ちながらも,心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”と言うことが実現してしまったのである。
去月十日,楽しみの日を胸に描きながら,池袋の駅で別れてあったのだが,帰隊直後,我が隊を直接取り巻く状況は急転した。そして今,晴れの出撃の日を迎えたのである。
便りを書きたい。書くことはうんとある。
然しそのどれもが今までのあなたの厚情にお礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました」と,最後の純一なる心底から言って置きます。
今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。然し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征きたい。
「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面を見出すこと」
「あなたは,今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」
極めて抽象的に流れたかもしれぬが,将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様,自分勝手な,一方的な言葉ではない積りである。
今更何を言うか,と自分でも考えるが,ちょっぴり慾を言って見たい。
1.読みたい本
「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2.観たい画
ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」
3.智恵子、会いたい,話したい,無性に。
今後は明るく朗らかに。自分も負けずに,朗らかに笑って征く。
昭20・4・12
智恵子様
利夫
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※参考文献 水口文乃著「知覧からの手紙」 (新潮文庫)。
遺書には、最後にお別れした池袋のことが書かれてあります。
そして、穴澤利夫さんの辞世の句がこちらです。
「ひとりとぶも ひとりにあらず ふところに きみをいだきて そらゆくわれは」
「僕は一人じゃない」。なんという智恵子さんへの愛の深さでしょう。
智恵子さんは、死ぬまで大事にしていたものがあります。寄木細工の小箱に入った2本のタバコの吸殻。
「彼の唇に触れた唯一のものだから」
その吸殻は、婚約者であった利夫さんの遺品でした。
智恵子さんは2013年にお亡くなりになりました。きっと、穴澤さんとの池袋駅以来68年振りの再会を天国で果たしたことと思います。
東京大空襲、広島・長崎の原爆投下だけではなく、戦時中は、空襲で全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んでいます。そういう歴史的事実は知っておくべきでしょう。被災した970万人それぞれに物語があります。