鬼滅の刃で理解する、帰納法と演繹法を用いた仮説の作り方
経験値やデータを基に、「このような結果になるということは、こんな仕組みなのだろう」という仮説を帰納的に立てていくリテラシーももちろん重要ではある。しかし、最短で真理を追究したいなら演繹的アプローチを交えることが一番効率的である。
マラソンの前に体を温めるウオーミングアップを考えてみよう。多くのランナーは自分の過去の経験(やコーチの命令)に基づいた方法でウオーミングアップをしている。これは帰納的なアプローチだ。
一方、演繹的アプローチならば、細胞内の糖が分解されてエネルギーに変わるメカニズム、熱力学といった基本法則をすべて理解した上で、それに則した方法でウオーミングアップをするという考え方になる。
「仮説作り」にセンスは不要
世の中には、センスで片付けてはいけない能力が3つあります。服の着こなし方、行きつけの小料理屋の見つけ方、そして仮説の作り方です。もしセンスで済んだら、真似できないじゃないですか。
ちなみに「仮説」とは、正解かは分からないけど最も確からしいと考えられる仮の答え、ある現象や法則性を合理的に説明するため仮に立てた説です。「仮」とはいえ、なるべく筋の良い答・説を設けたいものです。なぜならビジネスにおいては仮説の「筋の良さ」が成長に直結するからです。
自叙伝や対談を通じて、優れた経営者、優れたマーケターは、優れた仮説を生む能力に長けていると私は考えています。量や種類だけでなく品質や精度も優れている。
それが「センスが良いから」の一言で済まされてしまうと、本当に将来への希望が湧きません。私はセンスを論理的に学び、身に付けたいのです。
「どうすればセンス不要で仮説を簡単に作れるのか?」
これは、私が5年ぐらいずっと悩んでいた課題です。例えばデータ分析業務でも、仮説を求めて手元のデータに潜るあまり、溺れてしまった経験も1度や2度ではありません。
あれやこれやと模索して、たどり着いたのが「論理学」です。
論理学とは、正しい思考過程を経て真の認識に至るために、思考の法則・形式を明らかにする学問です。すなわち、考え方を整理した学問と言えるでしょう。「考え方」の1つに「仮説作り」も内包されます。
論理学には「推論」という用語があります。「アブダクション 仮説と発見の論理」から引用します。
推論は前提と結論から成りますが、前提とは推論の論拠となるあらかじめ与えられてある知識や情報やデータのことであり、結論とはそれらの与えられた知識や情報やデータを論拠にして下される判断のことです。推論とはつまり、いくつかの前提(既知のもの)から、それらの前提を根拠にしてある結論(未知のもの)を導き出す、論理的に統制された思考過程のことを言います。
前提から結論を導き出すことは、まさに「分析」です。加えて、未知なる結論を導き出すには、芋掘りみたいに自動的に結論が紐づいて出てくるわけでもなく、当然ながら仮説→検証→証明というプロセスが付き物です。
すなわち「推論」(あるいは論理的推論)こそが、センスに依存せず仮説を作ることができる思考過程だと私は考えています。
では、どのような方法があるのでしょうか? 先ほどの書籍から同じく引用します。
推論は、前提から結論を導き出す際の、その導出の形式や規則とか、推論の前提がその結論を根拠づける論証力(必然的か蓋然的か)の違いなどによって、いくつかの種類に分類されます。一般には、推論は演繹と帰納の二種類にわけられ、そして科学的思考の方法はこの二種類の推論の方法から成り立っている、と考えられています。
演繹法と帰納法。この2つをそれぞれ解説していきます。
ちなみに、あり触れた事例で解説しても理解が進まないので、令和でもっとも私が大好きな「鬼滅の刃」を事例とします。ストーリーに影響を与えるネタバレは避けたつもりですが、がっつり含まれます。
読んだことが無い人や、ネタバレを嫌う人はこの辺りでお別れできれば幸いです。ご静聴、ありがとうございました。あるいは、全巻読破いただいてから再開できれば幸いです。
帰納法とは?
帰納法とは、様々な事象を観察し、事実から共通項を発見して結論に至る思考法です。「経験による一般化」と表現できます。
「鬼滅の刃」で考えてみましょう。
(事象)鬼は夜中に突然、人を襲い、人を食べた
(事象)不死川の母は鬼となり、子を殺した
(事象)鬼は、胡蝶カナエを殺した
(事象)…etc.
こうした事象を一般化すると、どのような結論が導かれるでしょうか。鬼殺隊、特に柱はこのように考えているのではないでしょうか。
(結論)鬼は人に危害を加える存在である
だから、鬼は滅殺しなければならないのです。
事象は「具体例」であり、結論は「抽象化」です。具体→抽象。これを図で表現すると、以下のようになります。
帰納法は「前提が与えている情報」(鬼殺隊がこれまで見てきた限られた数の鬼に関する情報)を超えて、見たことが無い&見ることができない全ての鬼(過去・現在・未来すべての鬼)について「あらゆる鬼は人に危害を加える」と定義しているのです。
すなわち帰納法とは、具体→抽象に昇華させる思考法であり、部分→全体、特殊→普遍へと知識を拡張させる思考法とも言えます。
ただし帰納法には短所があります。蓋然的な推論である以上、観測した事象の数が少ないほど、前提でTRUE(真)であっても結論がFALSE(偽)になる可能性が高まります。
例えば、これまで観測した鬼は全て人に危害を加えていたとしても、竈門禰󠄀豆子や珠世さん、愈史郎といった結論が当てはまらない前提の登場により、結論はFALSE(偽)となりました。(これが仮説作りに良い影響を及ぼします。子細は後述します)
演繹法とは?
演繹法とは、普遍的かつ不変的な大前提を分析し、こっそり含まれている情報を解明して結論を導く思考法です。「前提を読み解く」と表現できます。
「鬼滅の刃」で考えてみましょう。
(大前提)あらゆる鬼は人に危害を加える存在である
これは普遍的かつ不変的な大前提であり、ルール、法則です。抽象化された「鬼」という言葉の中に、様々な情報が含まれているというのは帰納法の具体→抽象で想像できるかと思います。
こうした大前提をもとに、個別具体な前提条件に遭遇すると、どのような結論が導かれるでしょうか。
(小前提)竈門禰󠄀豆子は鬼である
(結論)竈門禰󠄀豆子は人に危害を加える存在である
だから、柱合会議で柱たちは竈門禰󠄀豆子を炭治郎もろとも斬首すると言ったのです。演繹法的に導かれた結論だったと言っても良いでしょう。
演繹法とは前提①、前提②から1つの結論を導く「三段論法」です。これを図で表現すると、以下のようになります。
演繹法とは「大前提」+「小前提」と結論の関係が論理的に正しいか否かのみ見ています。竈門禰󠄀豆子が本当に危害を加えるかどうかの証明はできませんが、大前提から導かれる結論としては間違っていません。
冒頭に引用した日経の記事からも分かる通り、数学や物理学のような不変的心理から読み解くという点において極めて「科学的」でもあります。
演繹法と帰納法は、それぞれの長所・短所を補い合う存在です。
「結論」は決して「前提」の内容以外について言及しない、という演繹法の長所で、帰納法の「結論を間違う」という短所を補います。
一方で、前提を超えた拡張ができない、という演繹法の短所は、帰納法の「知識を拡張あっせる思考法」という長所で補います。
このことから、演繹法は分析的推論、帰納法は拡張的推論と言われます。場面によって使い分けることが大事です。
仮説の作り方
では、ここから帰納法・演繹法をベースとした仮説の作り方の話をしましょう。
「鬼滅の刃」では、竈門炭治郎は他の鬼殺隊メンバーとは少し異なる体験をしています。
1つ目は、鬼になったのに人を襲ったり食べたりしない竈門禰󠄀豆子がそばにいること。これは富岡義勇や鱗滝左近次も条件は同じですね。
2つ目は、鬼でもある珠世さんと愈史郎から助けられたこと(浅草編)。
こうした経験から、炭治郎は他の鬼殺隊メンバーとは少し異なる思考をしていると言えます。これを図で表現すると、以下のようになります。
だから、柱合会議で炭治郎は不死川に向かって「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら柱なんてやめてしまえ!!」と言ったし、鱗滝左近次がお館様である産屋敷耀哉に送った手紙で「もし禰󠄀豆子が人に襲いかかった場合は、竈門炭治郎及び鱗滝左近次、富岡義勇が腹を切ってお詫び致します」と明言したのです。
「人を襲わない鬼」という存在が、普遍的かつ不変的だった「あらゆる鬼は人に危害を加える存在である」というルールを壊した以上、「人に危害を加える悪い鬼もいるし、人に危害を加えない善良な鬼もいる」という新たな仮説は、旧来の仮説よりも筋が良さそうです。
人と違う体験が、異なるルールを産んだのです。
一方で、鬼殺隊としては受け入れがたいものでしょう。自分の個人的体験談から信念として「あらゆる鬼は人に危害を加える存在である」と考えている柱もいます。「善良な鬼とは仲良く」と言われても、不死川のように「鬼は駄目です、承知できない」と反発するのも当然です。
こうした場合、新たな仮説を証明する必要があります。すなわち演繹法に則って、鬼の竈門禰󠄀豆子に好物の血を見せて「危害を加えること」が立証できないことを証明するのです。
実際、それが証明できたからこそお館様である産屋敷耀哉は「ではこれで禰󠄀豆子が人を襲わないことの証明ができたね」と言ったのです。
話が少し逸れますが、鬼殺隊、特に柱たちは「あらゆる鬼は人に危害を加える存在である」からこそ「鬼は滅殺しなければならない」と考えています。鬼舞辻󠄀無惨含めあらゆる鬼の滅殺こそが鬼殺隊の存在理由でもあります。
だからこそ、お館様である産屋敷耀哉は「炭治郎と禰󠄀豆子が鬼殺隊として戦えること、役に立てること、十二鬼月を倒しておいで」と言いました。もし鬼である禰󠄀豆子が「鬼を滅殺」するのであれば、この論理に矛盾が生ずるするからです。人に危害を加える鬼が、人を守り鬼を倒せるのか、と。
実際、無限列車編で煉󠄁獄杏寿郎は「俺は君の妹を信じる、鬼殺隊の一員として認める」「汽車の中であの少女が血を流しながら人間を守るのを見た、命をかけて鬼と戦い人を守る者は、誰が何と言おうと鬼殺隊の一員だ」と言いました。鬼殺隊に、鬼がいたって良いんだ、ということです。
繰り返しになりますが、炭治郎が他の鬼殺隊とは違うルールを掲げられたのは、彼独自に前提を覆すような事象に遭遇したからです。
言い方を変えると、仮説を作る近道は、前提を作った事象を観察し、前提を覆す事象に出会うことです。それは事実でも事象でも良いし、もちろん数字でも良い。
前提を疑う。結論を疑う。それこそが「仮説作り」の近道です。
結論に紐付く事象と相反する事実を見つけて帰納法を崩しても良いし、大前提に合致しない結論を見つけて演繹法を崩しても良い。なぜそうなるのか、を考えることから仮説は生まれます。
枯れた技術の水平思考
余談ですが、横井軍平さんの「枯れた技術の水平思考」は、ある特定のジャンルにおける法則やルールを、演繹法的発想で他ジャンルに当てはめるという意味で極めて論理的推論だったのではないかと考えています。
マーケティングにおいて、自分が化粧品業界に身を置いているなら、全く違う飲料品業界のルールを演繹法的に当てはめて考えることで、新たな仮説が生まれるかもしれません。
「前提を超えた拡張ができないという演繹法の短所」と表現しました。前提の中から結論を導くという意味ではその通りなのですが、そもそもその前提すら知らない場合は「未知の知を自らの血として定着させる」という意味において仮説作りに有効で、かつ自分の知識を超えた拡張ができます。
終わりに
帰納法・演繹法に沿って考えれば、仮説の作り方は「出会う」に尽きます。「前提を覆す事象に出会うこと」や「違う業界の人に出会い、ルールを知ること」が仮説を作る根底を成します。
私の恩師である元龍谷大学の松谷先生は「エイリアン」を口酸っぱく訴えていました。エイリアンとは「自分とは異なる価値観を持つ人」です。私には「脱会社人間」と教えてくれました。居心地の良い場所にいるな、ということでもあります。
私自身、現在はマーケティングを生業としていますが、エンジニアリングやデータサイエンスの知識が活きています。ものすごく出不精ではあるのですが、モンゴルやロシア、ベトナムを旅行した経験が活きています。
自分の体内に、自分の価値観以外を垂らすことが、結果的に仮説作りを推進するのかもしれませんね。
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