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コンピュータとネットワークの力で、直接民主主義に

選挙と議会の仕組みというのは、とても面白いものです。

政治家の仕事は、乱暴に大きく言って(1)政策・法案の立案(2)それぞれの法案への態度表明(意思決定)です。

これらは国の方向を決定づける極めて重要な仕事であり、本来であれば国民全員が発案者や態度表明者として参加すべきだと、筆者は考えます。

しかし、国民全員から法案を集める、国民全員に態度を表明してもらうのは、とてつもないオペレーションコストがかかり、現実的ではありません。なので、自分の信念や考え方に近い候補者に投票することを通じて、自分の意思が政策や法案に反映されることを期待する、という組み立てで選挙が実施されている訳です。

しかしながら、一人ひとりの有権者と政治家とが、全く同じ価値観を持つことはあり得ません。ので、有権者にとっては、自分が投票した結果当選した政治家の行う起案や意思決定の全てが自身の期待に合っている、ということは、まぁ期待薄でしょう。

こう考えると、選挙というのは、言ってみれば「政策や法案採否に直接参加することができない有権者が、候補者という媒介を通じてなるべく自分の意思を社会に反映させる、最大公約数的・妥協的な仕組み」であるという訳です。

また、大半の候補者は政党に所属しています。政党はリベラル/保守、右派/左派、といった政治的思想を求心力とした集団であり、政治家の行動は政党の方針に大きく左右されます。この点から、国民はたとえ意中の政治家が当選しても、彼の考えが政党のそれとコンフリクトを起こした場合は、投票に込めた意図が反映できないことになります。

政党という制度は大きく与党/野党の形をとり、権威の野放図な拡大を牽制する構造となります。これは独裁的な政治運営を抑制する効果を発揮しますが、同時に複雑な構造を持った社会を運営していくのに必要な多くの視点を、無理やり二元論的な見方に押し込めているような違和感を感じます。

有権者にしてみると、自分の信条は右派・左派などの単純な二元論で割れるようなものでない場合も、そのどちらかを選ばなければならないような、これまた妥協的な選択を強いられてしまう、というわけ。

ところで、改めていうまでもなく、昨今のコンピュータやネットワークの進化には目を見張るものがあります。自然言語処理などの技術も発展し、文章やその意味をコンピュータで扱うことも現実的になってきています。またスマホやPCも有権者一人一人まで行き渡ってきています。

となると、この「コンピュータの技術」と「民意の反映というアジェンダ」を掛け合わせれば、選挙という仕組みを通じて選んだ、「人間」という媒介を通さずとも

・政策・法案の提言

・似たような政策・法案を意味や意図に基づいてグルーピング(二元論的なグルーピングではなく、似たような法案や政策が提言されたときに、重複を回避するために行う)

・それぞれの法案に対する投票

と言ったことが、非常に安いコストで実現するような気がします。

これができると、例えば「政策Aについては候補者1、政策Bについては候補者2、政策Cについては候補者1、なので(政策Bは諦めて)総合的に判断して1に投票する」と言った妥協をしなくても良くなります。つまり国の運営に関する全てのことに直接的に民意を反映できるようなる、という次第。

直接民主制の欠点、として指摘されがちな

(1)雰囲気や感情に流されがちである

(2)専門知識が無い者が判断することになる

(3)議論によりアイデアを熟成させる場所が得にくい

と言ったことについても、

(1)については例えば、単純な投票・集計ではなく、体系化されている人間のバイアスをコンピュータで加味して判断する。バイアスを加味する際は、少数のエンジニアで決めるのではなく、行動学者・倫理学者などを交えて合意しながら進める。

(2)については、有権者の中から専門家を相当多数選出し、彼らの持ってる票数に加重をかける。選出・加重のやり方は(1)と同様に、専門家で慎重に議論する。

(3)Web上で議論の場を設け、誰でも参加できるようにする

といったやり方で、なんとか解決できるような気がします。

この世界観の元では、政治家は政策提言や投票に参加するよう国民を啓発する役割と、一部行政の長(=大臣)といして、民意によって決定された政策・法案の実行をドライブする役割を担うことになろうかと思います。これにより選挙区への利益誘導はできなくなりますので、政治が利権の温床になりにくくなるのではないか、と感じられます。

以上、「延長線上にない日々」というお題に乗っかって、20年後に民意の反映手段がこんな風になっていたらいいな、という願望を記してみました。

ちなみにこれらは、国政に限った話ではなく、会社の中での企画立案・戦略策定にも援用できるのではないかと思います。その環境下では、選挙の場合と同様に、エグゼクティブの仕事は、カルチャー作りや採用など、人事的な方向に大きくシフトするように思われます。

そうなった世界では、株価を決めるのは社員の知性の総和、ということになるのかもしれません。企業のアウトプットは、一人一人の従業員のアウトプットの総和ですから、なまじ一人のリーダーの言動や去就よりも、こちらの方が企業価値の説明としてスジがいいように、筆者には思われます。

皆さんは、どのようにお考えですか?








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