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「マネージャー」という「演劇」 ー私でありながら私ではない人物を演じる

私でありながら、私ではない人物を演じる。それこそがよいパフォーマンスであり、人間の発達である。

組織で働くとき、新しい役割期待を請け負うことがあります。たとえば、小さなチームのマネージャーになるときなどです。マネージャーという役割と、私という個人の経歴や思いとのズレのなかで多くのマネージャーが葛藤しています。ぼくもその1人でした。

こうしたズレはどのように起こるのか。そしてどのように捉えることができるのか。そのヒントを、演劇論と心理学から考えてみたいと思います。


「マネージャー」を演じる

ぼくは経営コンサルファームMIMIGURIで10人ほどのチームのマネージャーを勤めています。マネジメント経験も、かれこれ4年です。

当初はマネージャーになることを強く希望していたわけではありませんでした。それよりもプレイヤーとして経験を積む方が先かなと思っていました。そんなときに、当時のマネージャーが体調不良で休職をすることになり、ぼくが代理を務めることになりました。

このとき、ぼくはマネージャーになりきって、役を演じようと肩に力が入っていたように思います。

「役割」と「私」がずれていく

人生ではじめて「マネージャー」という役割がくっついてきました。外からはチームをつくる責任者として見られます。しかし、内面ではマネージャーとしての身の振り方がわかっておらず、知識も経験も薄いままでした。未だプレイヤーとしての自分の目標を追いかけていました。

そのようなズレがあったまま、マネージャーとして失敗を繰り返していました。評価のプロセスでメンバーが納得がいかない状態を重ねてしまったり、プロジェクトのなかで役割を適切に伝えられていなかったせいで不満を感じさせてしまったりといった失敗です。

そうして失敗を重ねていくなかで、「外からの期待」と「私」とのあいだに不一致が生じるようになり、心の葛藤が生じていきました。

「役」と「役者」の関係

このようにして「役割」と「私」がずれていくと、仕事が辛くなってきます。昨今語られている「マネジメントの無理ゲー化」も、こうした「役割」と「私」のズレも大きく影響しているはずです。

なぜ「役割」と「私」はズレるのか。このズレをどのようにとらえるとよいのか。それを考えるために、少し「演劇」について考えてみたいと思います。

組織における「役割」と「私」の関係は、演劇における「役」と「役者」の関係に似ている、と考えてみたいと思います。

劇作家の岡田利規さんは著書『遡行 変形していくための演劇論』のなかで、「役」と「役者」を、「映像」と「スクリーン」に喩えています。 該当する部分を少し長いですが引用します。

僕は学生たちに、役になろうとしなくてよい、と伝えた。そして、役というのをプロジェクターから打ち出される映像のようなものだとみなしてほしい、そして演じることを、その映像が映し出される投影先となること、スクリーンの機能を果たすことだと捉えてほしい、と要求した。

もっとも、役者と映画館のスクリーンには大きな相違点がある。役者はとてもごつごつとした具体物だから、白くて皺のない状態に張られた映画館のスクリーンみたいにその物質感を消すことができない。でも役者はその存在感を消そうとする必要など、まったくない。いい意味で演劇的な演劇であるには、役者は、ごつごつした具体感にあふれたスクリーンであったほうがいいのだ。

岡田さんは、「役は映像であり、役者はスクリーンである」と語っています。

これを先ほどのマネージャーと私の文脈に置き換えるならば、マネージャーという役割が、私という身体に投影される、という関係性になります。

この文章に即していうならば、ぼくはかつて、皺のない平らなスクリーンに、「マネージャー」という外から投影される役割期待を綺麗に映し出さなかければならない、と考えていました。しかし、それは「私」のごつごつした存在感を消し去ろうとする考え方でした。

岡田さんは「いい意味で演劇的な演劇であるには、役者はごつごつした具体感にあふれたスクリーンであったほうがいい」と言います。

なぜ「役割」と「私」がズレるのか。それは、投影された役割を、綺麗に映し出せる身体など存在せず、そもそもズレるものだからです。私自身のごつごつした具体的な存在感を活かしながら、役を受け入れていくしかない野田といえます。

では、「私」のごつごつ性や具体感とはいったいなんなのか。ふたたび、自分自身の経験にひもづけながら、考えてみたいと思います。

「私」の「ごつごつ」性

ぼくがマネジメントの役割を、じぶんなりにどうにか解釈して試行錯誤できるようになったきっかけがありました。それは自分のキャリアのなかでこだわってやってきた経験とマネジメントの役割を類推して考えたことでした。

それはたとえるなら、鏡で自分を見て、自分のからだの「ごつごつ」性をたしかめるような経験でした。

あるとき、チームの相互理解のために、自分の仕事の芸風をふりかえるワークショップを行ったことがありました。

そこで、自分のキャリアを思い返しました。ぼくはキャリアの最初に、アートエデュケーターとして、大学生時代からアーティストと共に子どもとのワークショップを企画する仕事をしていました。そのなかで、複数のアーティストに声をかけ、コラボレーション型のプロジェクトをしていたこともありました。

チームでの対話を通じて、こうした経験がマネジメントと結びついていきました。アートエデュケーションの技術をマネジメントに応用するのが、自分なりのマネージャーとしてのパフォーマンスなのかもしれないと気づいたのです。

その日を境に、例えば1on1ではアーティストにインタビューをするようにメンバーの「作家性」を深掘りしていったり、メンバーひとりひとりの「作家性」を活かす機会としてプロジェクトを意味付けてアサインしていったりするようになりました。

「私」でありながら「私でないもの」になる

もちろん、アートエデュケーターの仕事と、マネジメントの仕事は違います。アートエデュケーターとしての「私」に「マネジメント」という役割が綺麗に映し出されるわけではありません。

このようにして、「ごつごつした私」に「新たな役割/マネージャー」を投影して映し出していくことによってパフォーマンスが生まれていきました。

失敗を繰り返しながらも、「私」でありながら「私でないもの」としてパフォーマンスを積み重ねた経験が、マネージャーとしてのアイデンティティを徐々に形成し、ぼく自身の発達につながっていたように思います

こうしたパフォーマンスと発達の考え方を提案する重要な書籍があります。それがロイス・ホルツマン著『遊ぶヴィゴツキー 生成の心理学へ』です。

本書では、遊び・パフォーマンスを以下のように表現しています。

私たちはみな子どものように遊び、どうやればよいか知らないことを行い、自分であり、かつ同時に自分ではない人物に成る、そういう能力をもっている。それこそが革命的な遊びなのである。パフォーマンスなのである。人間の発達なのである。

『遊ぶヴィゴツキー 生成の心理学へ』ロイス・ホルツマン 

自分であり、かつ同時に自分ではない人物に成る。

これを、ここまでの文脈に照らして、「私」でありながら「マネージャー」に成ると言い換えてみます。さまざまな関心をもってキャリアを歩んできたごつごつした「私」でありながら、「マネージャー」という役割を投影された「私ではないもの」に成る。

本の中でホルツマンは、このような過程を「パフォーマンス」であり「人間の発達」であり、「革命的な遊び」であると語っています。

マネージャーと私を、完璧に綺麗に重ね合わせなければならないと考えると、かなり辛いものがあります。しかしこのように「私でありながら私ではない」という矛盾した状態こそが「良いパフォーマンス」であると考えれば、その矛盾した状態を遊びとして受け入れていけるということなのかもしれません。

悲劇から降りて、楽屋で台本を調整する

しかし、何度も繰り返すように、「外から期待される役割」と「私」がズレ続ける状態は、非日常的な遊び空間では楽しいけれど、日常の仕事の中でずっと続くと、楽なものではありません。たとえそれが「いい演劇/いいパフォーマンス」であったとしても、日常の中でそれが続くと観客が喜んでくれるわけでもなく、演出家に認められるわけでもないのです。

「私」と「私でないもの」のズレを捉え直し、意味づけを調整しながら日々を過ごすためには、仲間との対話が必要です。

精神科医のきたやまおさむ氏は「治療室は人生の楽屋である」といいます。

精神分析では、皆様の人生の楽屋や稽古場を準備して、その台本を読み取るお手伝いをする。人生という演劇を眺めながらその台本を読み取り、新たな言葉でライフストーリーを紡ぎ出すことこそが、押し付けられた悲劇から降りることや、台本の修正加筆につながっていく。

治療室は人生の楽屋 精神科医:きたやまおさむ

自分は、どんな演劇を演じているかわからないまま人生を演じていると考えてみることができます。ときに、自分の人生があまりにも悲劇だと感じられ、辛く苦しいこともあります。

そんなときには舞台を降りて「楽屋」に一度戻って、仲間と共に人生の台本を見直し、悲劇からおり、台本を訂正していくことができます。

ぼくにとってはチームで行った相互理解のためのワークショップが「楽屋」のような存在だったのかもしれません。

この楽屋の存在によって「よい演劇をする人生」が続いていくのでしょう。

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臼井 隆志|Art Educator
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