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外出自粛のストレスとどう暮らすか 〜「インターネットコオロギ」にならないために。

お疲れさまです。uni'que若宮です。

籠城生活が続いておりますが、皆様いかがおすごしでしょうか。

こちらの記事にもある通り、過去経験したことのない閉鎖的な生活が続き、「心の安定」も心配ですよね。

僕ももうかれこれ2週間はほぼ自宅ですごしています。どうにも息が詰まりがちですが、その中でやっている、自分なりのストレス対策について書きたいと思います。

「インターネットコオロギ」

突然ですが、「インターネットコオロギ」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?

金沢工業大学の長尾隆司教授がコオロギの生態を観察して、こんな発見をしました。

隔離して飼育したコオロギは、集団生活で飼育したそれよりも激しい攻撃性を見せたのです。さらに、その隔離方法によっても攻撃性は変わり、最も凶暴化するのは、透明なケースで他の仲間との接触を絶ち、触覚以外の視覚や聴覚などの情報は与えて育てたコオロギで す。それは「インターネットコオロギ」と名付けられました。

僕らはいま、隔離された状態にいます。そして、さらにインターネットやマスメディアを通じて「情報」のみが得られる、いわば「透明なケース」の中にいます。

気をつけなければ「インターネットコオロギ」化してしまうかもしれません。どのように対策をしたらよいでしょうか。

「情報」を減らす

インターネットコオロギの凶暴化の原因はふたつあります。ひとつは、隔離され、他者との直接的な触れ合いがないこと。そしてもう一つは「情報」です。

「情報」は意思決定や行動にはたしかに役立ちますが、時に諸刃の剣になります。知ることで意識が常に刺激され、気が休まりません。しかも、情報が解決策に終着せずエンドレスに続いたり、知っても行動に移せないような場合には慢性的な欲求不満状態に置かれます。

この継続する昂奮状態が、ストレスを増していきます。

しかも「情報」は抽象化されたデータです。たとえばSNSでは相手の人間性のほとんどが捨象され、ごく一部だけに接することになりますが、これを摂取する中で「他者」も抽象化されてしまい、その痛みへの想像力も失われてしまうのです。

ですから、「インターネットコオロギ」を防ぐための一つの方法は、「情報」を減らす、ということです。

以前こちらの記事でも書いたのですが、

リモートワークは移動がないぶん効率的ですが、その分日常が「情報」に溢れるようになります。しかもテレビ会議やチャットでは時間が「小分け」になる分、スキマ時間にもSNSをチェックしてしまったり、どんどんスキマがなくなって「情報」でギチギチになります。

気づけば、以前に比べると情報量が何倍にも増加してしまっています。なので、散歩をしたり、インターネットやスマホを切る時間を意図的につくるなどして「情報」を減らす意識が大切です。

「情報」以外の次元を増やす

もう一つ、「情報」の割合を相対的に減らす方法があります。それは「情報」以外の部分、つまり「身体」の割合を増やすことです。

(もちろん「身体」が感じるものも広義には「情報」ではあるのですが、ここでは単純化のため意味を伝達する抽象的な情報を狭義の「情報」とよび、「情報」として意味づけしきれない身体的感覚と対比して語ります。(これはダムタイプの『S/N』におけるsignalとnoiseの対比的/相補的関係に似ています))

アートシンキングでも「身体性」の重要性を指摘していますが、僕らは仕事をするとき、ほとんど視覚と頭しかつかっていません。オフィスではにおいや音、味覚や触覚を使うことはあまりなく、そういうものはどちらかというと「ノイズ」として排除されます。

これはいわば、目出し帽を被って鼻や耳を塞いでいるような感じで、視覚と脳だけに意識を集中し情報処理のみに特化していくような状態です。

さきほど在宅ワークだと「移動」がなくなる、という話をしましたが、「移動」は時間的な余白をつくっていただけではなく、実は五感を触発する機会にもなっていました。

外に出て、風を感じる。空気の匂いや花の香りを嗅ぐ。気温の変化に季節を感じる。そして予期しなかったものに出会い驚く。人と触れ合ってその温度にほっとする。

外出自粛はそういう機会も同時に奪い、身体性は大きく低下しています。結果として分母が減ることで相対的に「情報」の純度があがり、それは「想像力」をも奪うことになります。

自著『ハウ・トゥ・アートシンキング』でも引用した、僕の好きな佐々木健一氏の「想像力」の定義を引用します。

(想像力とは)身体に媒介されている限りでの精神の働き全般をいい、特に美的現象に関係する想像力は、物質 = 身体の刺戟を受けて活性化され、より幅広く創造的に考える精神の働きである。精神が身体の影響を遮して、純粋に思考しようとするとき、その思考は 抽象的・一般的・論理的な性格を帯びる。それに対して、身体との関係に即して思考す るとき、その思考は具体的・具象的であり、経験の抵抗との相刺のなかで展開されてゆく。 思考である限り、一般的であり論理的であることに変わりはないが、具体的であること によって、想像力の思考のもつ一般性や論理性は独特なものとなる。(佐々木健一『美学辞典』)

ここで、想像力が「身体に媒介されている限りでの精神の働き」と言われていることに注目しましょう。たとえば小説を読んでそのシーンを思い浮かべる時、僕らは自分の身体の記憶を呼び覚ましています(それゆえ、小説のシーンは人や文化によってイメージが変わったりします)。今目の前にいない人を思う、あるいはこれからの未来をありありと想像する、そこには「身体性」が必要なのです。

身体性が失われる時、その思考は「抽象的・一般的・論理的」になり、「情報」の「演算」に近くなります。触れ合いを奪われた「インターネットコオロギ」のように、あるいは冷酷無比なロボット兵器のように、相手の痛みへの想像力を欠き、人を攻撃できるようになるのです。

そうならないためには身体の感覚へと意識を広げること。そしてそのために、毎日の中で身体が反応するような、少し異質なものに出会う時間をつくることが大切です。(たとえば通勤の道では景色をあまり意識しないように、同じ刺激は「慣れ」とともに平板になってしまいます)

アート鑑賞のススメ

「情報」を減らし、他方で「情報」以外の次元(=身体性)を増やすことで、僕らは「インターネットコオロギ」にならないことができます。しかし、家にばかりいるとそれもなかなか難しいかもしれません。

そこでおすすめしたいのがアートです。

外出を自粛して、コロナウイルスに立ち向かっている皆さん。慣れないZoomと格闘しながらリモートワークを頑張っているあなた。

最近、ぞわわ、と鳥肌が立つような経験をいつしましたか?
目頭があつくなったり、懐かしさに心を奪われたり、ふと身体が反応してしまうような瞬間が最後にあったのはいつですか?

そういえばもうしばらくそういうことないな、、、と思ったあなたには、ぜひアート鑑賞をおすすめします。

やり方は簡単。たとえば平日の昼間、まずは一本映画をみるだけ
仕事中だから無理、と思うでしょうか?時間のムダだ、とおもうでしょうか?

でもその時間はそもそも、移動がなくなって生まれた「余白」なのです。だから身体のための時間に使ってよいのです。思う存分ぞわってしたりひやってしたりじーんってしたりムラムラしたりお腹がすいたりすればよいのです。

そして映画を見ている間、あなたは「情報」から距離を取ることもできます。

初心者向けは映画ですが、身体のための時間をつくるのに慣れてきたら、音楽(情報を摂取しつつの「ながら聴き」ではなくちゃんと聴くこと)、小説、そして絵画など想像力の必要度が高いものに触れていってみましょう。

そうしていくうち、身体性にはまだまだたくさんの次元と深さがあることに気づきます。「情報」という平面に閉じ込められているのではなく、自分はもっと立体的で深さを持った、血の通った身体なのだということに気づくはずです。すると世界は(たとえ狭い部屋にいても)もっと広大な広がりとして見えてきます。

せわしなく情報のやりとりすることに追い立てられ、叩き合う「インターネットコオロギ」にならないために。細切れの情報の拡散や短絡的な攻撃を打ち込む前に、身体性をもって想像するようになれば、あなたは少し「攻撃」から距離をたもてるかもしれません。そして身体の時間は、コロナウイルスが終息した後も、あなたの世界を豊かにしてくれるでしょう。

(そして救われたらぜひ、アーティストに敬意とお金を)

アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は

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