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インフルエンサーには、「中立性」「信憑性」「個性」が大切

過去20年、インターネット普及が成し遂げた大きなパラダイム転換は、何だろうか?政府や大企業、巨大メディアといった、情報を牛耳る「既存勢力」と、もともとはほぼ情報の受け手でしかなかった「個人」の力関係を、鮮やかに反転させたことが挙げられる。

いまや個人は、既存勢力に劣らぬ情報の発信ツールを持ち、情報の受け手は、既存の「お上」よりも(まったく知らない人であっても)個人を信頼する傾向がある。したがって、発信力のある個人がインフルエンサーと呼ばれ影響力を持つことは、インターネットが起こした情報革命の帰結と言える。

これは一見、喜ばしい民主化の流れのように見える。しかし、本当に私たちがこのパラダイム転換から恩恵を受ける前提として、インフルエンサーには大きな責任が求められている。

プレ・インターネット時代を考えてみよう。既存勢力が権力を濫用するには、偏った情報を都合よくねじまげて流すだけでよかった。大本営発表を想像していただきたい。また、巨大メディアが大手広告主に気を遣うあまり、中立性に欠けた情報を流すことは今日でも十分にあり得る。

実は、この公式は、情報の発信源が個人に移っても当てはまる。すなわち、インフルエンサーが、本当にひとびとの便益に資するためには、いろいろな権力や利害に中立でなければならない。彼らの情報には良識と信憑性が求められる。もちろん数ある発信の中から選ばれ、読まれるためには、ひとを惹きつける個性が必要なことは言うまでもない。

では、この観点から、企業とインフルエンサーの関係はどうあるべきか?今日、伝統的なマス広告の衰えをしり目に、ソーシャルメディアの影響力は増すばかり。企業にとって、インフルエンサーの発信は無視できない。だから、テレビ広告の枠を買うように、特定のインフルエンサーをチャネルとして手元に置きたい気持ちはわかる。

しかし、「会社員インフルエンサー」のように、企業とインフルエンサーが排他的な関係を結べば、信憑性こそ担保されるものの、インフルエンサーの中立性は損なわれる。また、生身の人間であるインフルエンサーの個性が、企業の打ち出したい世界観と100%合致し続けることは難しいだろう。

したがって、情報の受け手に既になじみ深い企業に対する「応援消費」を盛り上げる一環として社員インフルエンサーが活躍する場合を除き、中立性に欠けるインフルエンサーは大きな存在にならないと考える。企業が金銭や過多なギフトの形で補償するインフルエンサーも、そのことが早晩見透かされて淘汰されるだろう。

例えば、ラグジュアリーブランドが、キャンペーンなどを除き、特定のインフルエンサーと明示的な関係を避ける事情は、ここにあると思われる。王道は、ブランドとして魅力的な価値提供を続けること。あくまでもその結果として、「中立的な」(欲を言えば、世界観が似ていて、フォロアー数の多い)インフルエンサーに、信憑性のある情報を発信してもらうことを狙っているようだ。

もし強力なインフルエンサーに良識がなければ、大きな社会混乱が起こるリスクさえある。例えば、最近ソーシャルメディアで徒党を組んだ個人投資家が引き起こした米国株乱高下には、フィナンシャルインフルエンサー、別名「フィンフルエンサー」による煽動が指摘されている。

このような問題を防ぐためには何らかの規制が必要だが、答えは未知数だ。インターネットの世界は、ポジティブには「誰でも言いたいことが言える」民主的な場所だが、ネガティブには、「法に触れない限り、何でも言い放題」で、抑制の利かないアナーキーな場所に振れる危険がある。インフルエンサーの中立性や信憑性を担保することは、これから大きな課題となるだろう。

#日経COMEMO #インフルエンサーで売る時代は続くのか

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