『コロンブス』問題で考えた、「組織や社会のラーニングコスト」
お疲れさまです、僕です。
6/12に公開された、Mrs. GREEN APPLEの新曲『コロンブス』のMVが物議を醸しています。
広告表現については年に何度かこのような問題が起こっているので、今回のMVについても、「いやいい加減学びなよ…」と思われた方もいるかもしれません。
こうした問題が繰り返されるのは単に不注意とかいうこと以上に、「組織や社会全体のラーニングコスト」の問題があるのではと改めて感じています。
『コロンブス』MVの問題点と世間の反応
本件についてよく知らない方もいると思うので、MVの内容と問題点、経緯については、こちらのBBCの記事をどうぞ。
SNSでも「歴史を知らないの?」とか「いやいやあれを差別的と見る方がおかしい」などなど、批判・擁護両面でいろいろな声があがっています。記事などでスクショをみると、『コロンブス』というタイトルで欧米の歴史上の人物が登場し、彼らだけが主役的な「人」で他の登場人物は類人猿のみの設定、という描写は、「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図」がなかったとしてもさすがに厳しいかな、というのが個人的な印象ではあります。
ただ、すでに動画は非公開になっており僕はMV自体をみていないので、この記事ではMV自体についてではなく、それを巡る反響や批判をみて感じたこととして、こうした問題が繰り返される構造や環境の問題について「学習コスト」という観点から書いてみます。
制作段階で止められたはず?
一つ目のポイントとして、制作段階についてのコメントがとても印象的でした。
今回のことへの反応を見ていると、「今の時代これ誰も止めなかったの?」「ガバナンスやチェック体制どうなってるの?」という批判意見が多かったのですが、こちらの意見ではもう一歩突っ込んで、「いや気付いた人がいても止められんのよ…」という実情について書かれています。
本当にあるあるだなとも思いましたし、これって組織の問題だと思うのですよね…。
ここ数年、広告表現が物議を醸し、謝罪と非公開になることが年に数回起こっています。そういうリスクがあることはもうわかりきってるのに、相変わらず気づかないのか、誰か止めろよ、と批判することは簡単です。しかしこのツイートで指摘されているように、組織として物事が進行しているときに異論を唱えることは非常にコストが高く、エネルギーが必要なことなのです。
新規事業をやってきた身からしても、リスクへの対処は線引が難しいな、という感覚があります。法的にNGだとすぐわかるものはいいのですがが、今回のような文化的・倫理的な問題や、業界慣習や消費者の受け取り方についての懸念というのはどこまで配慮するか、というのは実態としては判断が難しいものです。
新規事業においてはリスクを挙げることでプロジェクトの進行にブレーキがかかりすぎることもあります。僕自身、新規事業を推進する際にリスクを指摘されたり他部門のチェックを受けることがあり、「いやそんなあれこれ言われたら何もできないよ!」という気持ちになったこともあります。
無知で突っ込むのとリスクを知っていて進むのとは違います。リスクを認識しておくのが大事なことは間違いありません。
ただ問題は、そうしたリスクの洗い出しにどれだけ時間とコストを掛けるか、どれくらいのリスクでストップするかという判断はなかなか難しかったりするんですよね…。
なぜかというと、A/Bテストのようにやってみて試す、ということができないからです。今回のように問題になってから「ほれみたことか…」ということは簡単ですが、問題にならない可能性もありますし、ストップすれば単に世に出ないだけで終わるわけで、どっちにするべきかはやってみない限りわからず、原理的に比べることができないというジレンマもあるのですよね…。
やって起こったことについては評価できますが、「未然に防ぐ」という成果の評価というのは本当に難しく…。
みんながそっちに向かっている時に異論を出すことには川の流れに逆走したり、走っている車を押し止めようとするようなもので、ものすごくエネルギーが要りますし、その行動自体にも(周囲の感情的な反発を受ける)リスクを伴います。
その大変さの割にたとえ正しく止めることができても評価されづらい、となると異論はほとんど出てこなくなります。結果として問題に関しての学習コストがものすごく高くなり、現状通り進むことになってしまいます。
問題のスタディやラーニングのコストを下げる
ラーニングコストを下げるには、たとえばAIを活用するのもよいかもしれません。たとえばこんな風にchatGPTさんに質問してみます。
するとChatGPTはものの数秒で、たくさん指摘を返してくれます。
今回問題になったのは主にこの部分でしたが、それ以外の論点も指摘してくれました。
たしかに「文化の盗用」やジェンダー、動物愛護的な観点もあるかもしれませんよね。
人間が組織の中で異論を出したり、リスク観点を広範に調査したりするのにはコストが大きいですが、AIであれば数秒で、非常に幅広い観点から、しかも人間関係を気にしたりせずに客観的に異論を出してくれます。
広告表現に限らず、一定影響力のある人がSNSで発言する前には一度chatGPTさんに意見を聞くのがいいかもしれません。こうしたリスク感知に特化したAIのSaaSとかもそれなりに需要がある気がするので、誰かつくってくれたらと思いますし、SNS各社に置かれましてはアテンションや滞在時間を伸ばすためだったりコンテンツの生成にAIを使うのではなくて、基本機能としてこうしたチェックやアラートを入れてもいいんじゃないでしょうか。
公開後の反響に対する態度
もう一つの「ラーニング」の視点として、公開後の反響にどう対応するか、という点も大事です。
僕は最近、「炎上」という言葉を極力使わないように心がけています。何か問題が起こった時にすぐ「炎上」というと、失敗や悪いイメージだけが先行し、問題を議論するよりも「火消し」として謝罪と削除で終わってしまう気がするからです。こうした問題から次につながる学びを得られるためには「燃えてなくなってしまう」のではなく、ケーススタディとしてちゃんと議論をした方がよいのではないでしょうか。
この点に関して、もう一つ印象的だったツイートがあります。
他のツイートでもちらほらみたのですが、今回、Mrs. GREEN APPLEのファンのみなさんが今回のMV批判に対してただ擁護で押し返すだけでなくて、ちゃんとラーニングしているのが素晴らしいなと。
広告表現についてはジェンダーに関する問題がしばしば起こりますが、悲しいのはそこから何が問題だったかを議論するよりも、擁護派と批判側で言い争いになり、元のコンテンツと関係ない石の投げ合いになるのが多いことです。そうしてどちらかがどちらかを「論破」したとしても社会全体としてはあまりラーニングがなされません。
表現においては完璧というのは存在しませんし、その基準も変化していきます。失言やハラスメントを無知や無意識にやってしまう可能性は誰しもpあると思います。(僕自身、昭和男性のノリで言っていたジョークが今ではアウトだった!みたいな失敗をすることがしばしばあります。。)
なので本当は、いいか悪いか責めたり養護するだけでなく、批判的な反響もそこから学んでいくための教材や助言と捉えられるといいと思うのですよね。すると「社会全体としてラーニング」が進むはずです。
「社会全体としてのラーニング」という観点から考えると、二項対立になってあっちが悪い、と押し合うのに時間を使うのはコストをさらに上げるだけで、停滞にしか繋がらない気がします…
組織や社会全体のラーニングコストを下げよう
発言や表現について、個人として暴言や差別的な表現を避けることはもちろん大事ですが、今回みたようにそれって個人だけの問題ではなく、組織や社会全体として、「学び、改善していける」構造をつくることが重要なのではないでしょうか。
「学ぶ」ということは今まで知らなかったことを知ることであり、しばしばこれまでの自分の価値観を見直す必要もあるので、コンフォートゾーンを超える、ある意味ではしんどい作業だったりします。
学ぶことは楽しさもありますが、その瞬間はちょっと面倒くさい。今回のMVに関わった方も批判を受けて「学べてよかった、うれしい」とはなかなかなれず、落ち込んだり感情的になったりすることもあるかもしれません。でもそういうしんどさ、面倒くささを受け入れて、ラーニングしていけるとよいですよね。
ラーニングには心理的にも稼働的にも「学習コスト」がかかります。
ラーニングコストが高すぎると、組織や社会は学ばなくなります。学ばず、すでに学んだことを続けて、変化しない方がコストがかからないので、現状維持が選ばれてしまうのです。これが最も恐ろしい状態で、思考停止し変化しない体質となってしまう。それは、精神的・文化的引きこもりのように、逃避的な態度に陥るかもしれません。
そうならないためにも、組織や社会全体としてラーニングコストを下げる工夫をしながら、学びに対していつもウェルカムであれるようにしていけるといいなと、『コロンブス』をめぐる様々な反響を見て感じました。