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子どもと美術館に行くときに考えていること

ぼくは今、2歳と4歳の子育てをしながら美術館に足を運ぶことを楽しみとしています。

美術館はぼくにとって、現代の様々な問題について感じ、考える場所です。生と死、政治と信仰、技術と社会の在り方などについて、美術作品を通じて奇妙な高揚が得られます。そうして、仕事や生活を見る目を澄まし、ぼく自身も様々な問題に気づき働きかけることができるようになっていると感じます。

森美術館で開催中の「ワールドクラスルーム展」でも出品されているアーティストの藤井光さんは、震災やコロナなどの事象をもとに、対話を触発するような作品を制作・公開されています。

こうした硬派な作品であっても、子どもたちと一緒に美術館に行って鑑賞することがあります。しかし、友人や知人から「幼児と美術館に行くのは不安ではないの?」という声もよく耳にします。

確かに、子どもが作品に触れてしまったり、壊してしまうリスクもあります。また、走り回ったりうるさくしたりすることで周囲の人々に迷惑をかける可能性もあります。子どもに気を取られて自分自身が作品をじっくり鑑賞できないこともありますし、子どもにとって現代美術は理解しにくいかもしれません。

それなのに、なぜわざわざ子どもと美術館に行くのか、どのような気持ちで行っているのか、私は考えてみました。

文化に触れたいという欲求を満たすために

まず、ぼくは自身が「文化に触れたい」という欲求を強く持っています。

漫画や小説、映画、演劇、美術など、可能な限りさまざまな方向性の文化に触れたいと思っています。しかし、子育てをしていると、そのような経験には制約が生じます。

文化体験をするためには、子どもを誰かに預けるか、子どもと一緒に体験するかの大きく二つの選択肢があります。もし預けることができるのであれば問題ありませんが、多くの場合、子どもと一緒に文化体験をすることが必要となります。

2歳から4歳の子どもと一緒に文化体験をする場合、さらに選択肢は限られます。じっと座っていなければならない映画や演劇は難しいですし、目と手を同時に使う漫画や小説も難しいでしょう。

しかし、美術館という空間は比較的自由度が高いのです。子どもと一緒に探索できる自由があるのです。作品を全部じっくり見ることができなくても、森林を散歩して木々の香りを吸い込むように、選び抜かれ、考え抜かれて構成された作品の文脈のなかをあるくことはできます。大人の楽しみとして、帰宅してから作品の背景にある歴史や文脈を、図録を通して振り返ることも可能です。

文化に触れたいという自分の欲求を、子どもと共にいながら満たすには、美術館がいまのところ最適な場所なのです。

子どもとの美術館賞の3つの問題(と対策

美術館での子どもの鑑賞について考えるとき、いくつかの問題があります。

問題1:破損

まず、作品や施設内部を破損してしまうリスクです。絶対に避けなければなりません。これは最初に子どもたちによく伝えます。さらに、美術館には監視員の方がいらっしゃることも多く、彼らは協力してリスクを回避する仲間だと思って、協力してもらいます。

問題2:うるさい

また、子どもたちは走り回ったりうるさくしたりする可能性もあります。これについては、「多少は仕方ないかな」という姿勢で美術館に行っています。

もちろん、監視員の方や他の来館者に迷惑をかけることは避けなければなりませんが、怒られない限りはあまり神経質にならず、子どもたちを見守ろうと思っています。美術館で寝転がったりふざけたりする子どももわりと放任しているので、ずぼらな親だと周りからは思われているかもしれませんが、まあ…いいかなと…。(笑)

問題3:作品を見られない

さらに、子どもたちに気を取られて大人が作品をまともに見られないという問題もあります。私は最初からそれを諦めています。

子どもと美術館に行くのは、作品をじっくり見るためではなく、むしろ散歩する感覚です。文脈の空気を感じに行くのです。

作品を見る子どもを見る

また、作品を見る(もしくは見ていない)子どもを見に行く、という感覚もあります。子どもたちを通して作品を見ることができるのです。

現代美術の作品は、視覚や身体感覚に訴えるものが多いです。子どもたちはそれらを無視して走り回ることもありますが、彼らなりに作品に目を向け、疑問を抱き、じっと見つめたり笑ったりする瞬間もあるでしょう。

対話型鑑賞の問いかけもできるが…

対話型の鑑賞方法を使って、「あそこで何が起きているのか?」「〇〇って知っている?それは〇〇と同じなのか?それとも違うのか?」といった問いかけによって子どもたちの注意を引くことも可能です。

しかし、子どもは大人が作品を見せようとする意図を敏感に感じ取ります。そのような圧力を感じることで、美術館自体が嫌いになってしまう可能性があるので、あまりぼくはやらないようにしています。

子どもに現代美術はわかるのか?

「子どもに現代美術はわからないだろう」という問題が存在しますが、では「わかる」とは具体的にどういうことなのでしょうか?

歴史の観点から作品のメッセージを解読し、言語化して「わかる」という感覚を得ることができる人もいるでしょうし、そのような美術の理解方法は重要だと思います。しかし、子どもを含む全ての人に対して、そのような言語での理解が求められているわけではありません。

作品の見慣れない形や表象に目を奪われ、心を絡め取られ、身体がザワザワしたり、別のものを連想したり、深い記憶に結びついたりする経験は、誰もがし得るものだと思います。

子どもたちもまた、そのような鑑賞体験を通じて、自分の意識が揺さぶられていることを感じているのだと私は考えています。思い込みかもしれませんが、そう感じているのです。

同時に、親であるぼくが、子どもが何を感じて考えたか、すべて知る必要はないと思っています。同じ作品を見ても、全く異なる感じ方をするかもしれません。どのように感じたのかは謎のままであり、本人にとっても謎のままかもしれません。

美術を鑑賞する経験は、いつ解き明かされるかわからない謎を私たちの内に抱えていくものだと思います。大人になってから「わかった!」と感じることもあるかもしれませんし、さらに年を重ねると、また新たにわからなくなることもあるでしょう。その作品と自分との間に固有の意味が生まれる可能性を蓄える時間として、美術館に遊びにいっているのかもしれません。

結局は親のエゴだとしても

とまあ、子どもにとっての意味のようなものを語ってみたものの、結局は親のエゴでしかなく、結局は子どもに美術館に付き合わせていると思っています。

しかし、子どもの楽しみにぼくも付き合っているのだから、自分の楽しみに子どもを付き合わせることが、そんなに悪いことだとも思いません。お互いの関心に、お互いが関心を寄せ合える状況を作っていきたいと思っています。

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