Weという言葉の危険さと効能
筆者が10年くらい前に参加したリーダーシップ研修での話です。
その研修には、企業に勤める二十人ほどの役員やシニアマネジャーが参加していました。色々と趣向を凝らし楽しくリーダーシップを習得できる内容だった丸々三日間の二日目に、講師が今からゲームしましょう、と宣言しました。
講師は教室前方の黒板に野球のスコアボードのようなものを書き始めました。上段にAチーム、下段にBチームとあり、横方向には1回、2回、3回、合計とあります。
筆者はABの2チームであるゲームを3回実施し、その合計スコアを競うのだな、と理解しました。
講師がゲームのルールを説明します。詳細は割愛しますが、体を動かす、楽しいゲームのようです。そして「このゲームの目的はできるだけ高いスコアを取ることです」という言葉を結びに、ゲームはスタートしました。
筆者はAチームに属していました。そしてチームメイトと共に、いかにBチームを出し抜くか、の戦略を、短い時間の間に立案・実行し、見事合計スコアはBチームを大きく上回るものとなりました。
勝利にわくAチームの面々。と、そこに講師が放った一言に、筆者は電気ショックを与えられたような気持ちになりました。
「このゲームは、ABチームが(対抗するのではなく)協調した方が高いスコアが取れる、ということには誰も気づかなかったんですか?」
筆者は、それまで和気藹々と研修に励んでいた二十人がABチームに分けられた途端、Bチームを敵と見做し「They=あいつら(Bチーム)」と「We=わたしたち(Aチーム)」という意識になりました。
一人ひとりは全く同じ二十人。
にもかかわらず、ABの2チームに分けられただけで、仲間意識が対抗(なんなら敵対)意識に変わったのです。
これは考えてみれば、なかなかに恐ろしいことではないでしょうか?
今回のコメモのお題は「チームビルディング」です。
リーダーたるもの、プロジェクトが成功する要諦は「メンバー全員がワンチームになる」ことである、というくらい、常識として誰でも心得ているんじゃないかと思います。
しかし上の研修のエピソードは、そんな常識は、何気なくチーム分けされるだけで忘れ去られてしまう恐れがあることを示唆しています。
プロジェクトには、得てして多くの部門から担当がアサインされてきています。大規模なものだと複数の企業や組織の混成チームだ、ということもあるでしょう。
研修での経験を敷衍すると、この状態は、放っておくと、プロジェクト担当一人ひとりの出身チームや組織の数だけA、B、C・・・といった具合にプロジェクト内にサブチームができ、複雑な「We=わたしたち」「They=あいつら」構造を産んでしまうように思われます。
こうなってしまっては、ワンチームどころの騒ぎではありません。チーム間のコンフリクトはメンバーのフラストレーションや、政治的なアクションが生まれてしまう原因となっていくでしょう。
こうなることを防ぐためには、リーダーがきちんと配慮・工夫して元々の所属を超えた協力を促すような仕組みづくりやコミュニケーションをしなければなりません。
そのための簡単な技術として「We」という概念の取り扱いに気をつける、ということがある、と筆者は考えます。
Weという言葉は、全員を含むケースとそうでないケースがあります。
大規模プロジェクトのミーティングで、ある企業から派遣されている誰かが「我が社としては」と発言する場合、We=我が社=その人が属している企業です。つまりこのWeはプロジェクトの中で、その企業出身者以外をYou(「あんたたち」)とすることによって、全体を分断する作用を持ちます。
そこまでの規模でない場合も、何気なく発せられる「広報としては」というような発言は、プロジェクト内に壁を作ります。この場合はWe=広報で、You=それ以外という次第。
では、逆にWe=プロジェクト全員、という語法を徹底するとどうなるでしょうか?
つまりWeという言葉の使い方を「わたしたち」と「あいつら」「あんたたち」を隔てない意味(=全員を含むWe)のみに限定するのです。
(これだけで全てが解決できるわけではもちろんありませんが)こうするとチームの中から「わたしたち」vs「あいつら」「あんたたち」という対立構造が生み出される芽を摘み、壁がないプロジェクトというマインドセットを醸成し、チームの意識を一つにまとめていく機運ができるのではないか、という気がしませんか?
また、この考え方でいくと、代名詞による発話だけでなく、上記のような「我が社としては」「広報としては」という出身母体を代表するWe概念も使わない様にに徹底することも同様に大事だと考えます。
最後に。
プロジェクトリーダーの目線に立ったとき、彼女又は彼の意識が他のプロジェクトと競合していると、企業規模・産業規模で「わたしたち」「あいつら」「あんたたち」構造を生み出していることになります。
リーダーたるもの、自分の管掌するプロジェクトをうまくいかせることだけに腐心していては、メンバーにワンチームの精神を求める資格はありません。メンバーに全体を主語にすることを求めるの同様に、自分も自分の視座での全体を主語にして、考えていきたいものです。
読者の皆さんは、どのようにお考えでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?