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価値を下落させる「不当サービス」の悪循環

お疲れさまです、uni'que若宮です。

今日はちょっと価値と対価について書いてみます。


「お客様は神様です」?

先日こんなツイートをしました。

日本には「お客様は神様」という言葉があります。

これは歌手の三波春夫さんの言葉として知られていますが、ご本人の意図とはまったく違う形で広まってしまったそうで、オフィシャルにもその誤解について説明がされています。

三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。
 しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります。
 例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています。


この誤った「お客様は神様」信仰はいまだに根強く日本の中にはびこっているようで、そもそも価値とそれに対して支払われる対価は等価であり、お金を払う側と受け取る側に上下はないはずなのですが、この「お金を払う方がえらい」という謎の優越意識と勘違いがいまもけっこう根強く存在しており、三波事務所の説明でも

「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり

とあったように、「お客様」がえらそうにする場面はいまでも色々なところで見られます。


「サービス」って値引きなの?

もう一つ、日本に独特な価値観を示す言葉に、「サービス」というちょっと変な和製英語があります。「サービスする」「サービス残業」というように、なぜか日本語の「サービス」という言葉には原語にはない「値引きや無料」というようなニュアンスがあるのです。

そしてこれは単に英語の翻訳を間違えたとかそういうことではなく、もっと根深い問題のようです。「サービス」という単語は日本語では「奉仕」ですが、「奉仕」の意味を調べてみると、

1 神仏・主君・師などに、つつしんでつかえること。「神に奉仕する」
2 利害を離れて国家や社会などのために尽くすこと。「社会に奉仕する」
3 商人が品物を安く売ること。「特価で御奉仕しております」「奉仕品」

こんな感じなんですね。3の意味にみるようになんと日本語の時点で「安く」というのが入っているのです。このニュアンスは、2の「利害を離れて」から引き継がれているようにも思うのですが、その対象は「国家や社会」であり、なかんづく第一義的には「神仏」、つまり「神様」に対して行われる行為なわけです。

相手が「神様」だから利害を考えてはいけない、安く、何なら無料でやってこそ「奉仕」、というのは、日本独特の(そして全体主義的な危険性のある)精神だと思います。

serviceはserveの名詞形ですが、serveにもたしかに「奉公する、召し使いをする」などの(ラテン語の「servus奴隷」を語源とした)意味があります。しかし、かならずしも一方的な服従の意味だけではなく、「〈人の〉役に立つ」や「〈目的・必要・用途に〉かなう,合う」という、より対等なニュアンスもあるのです。そして何より、そこに「安く」とか「無料で」という意味合いはありません。


「プロ」への過大な要求

対価を安くしたり、無料化するのを「サービス」と呼ぶ一方で、日本人は受ける「サービス」に対する期待値や評価もとても厳しい気がします。

ミスをした店員さんに対し、「それでもプロか!」と罵ったり、電車が遅延している時に駅員さんに怒鳴り散らしたりしている人をよくみかけますが、「お金をもらっているんだから当然」、「できてない方が悪い」と、「プロ」に対して異常に手厳しいのです。しかもこれはなにも、性格や意地の悪い人間に限った行動ではありません。家族や友人にはとても優しい人が、なぜか「プロ」に対しては異常に冷たい、ということがよくあります。まるで、「プロ」としてみた瞬間、相手が人間だということを忘れて「商品」としてみてしまうかのようです(芸能人の不倫やスキャンダルを「有名税」や公共性を盾に叩きまくるのもこうした感覚と通じている気がします)

もちろん対価を得る以上、そこに責任は伴いますし、「プロとして」しっかり仕事し価値提供することはいうまでもなく大事です。しかし、日本では価値の要求があまりに過大となり、対価と釣り合わなくなっているケースがとても多い気がします。

サイゼリアのような安価なお店でも高級レストランの「お客様」のように尊大に振る舞い、「神様」として「奉仕」されることを要求する。客単価が数万円するような高級店でホスピタリティを売りにしているのならもちろんそれを要求してもよいでしょう。しかしすでにみたように、日本の「サービス」は、英語のserveにあるような対価に「適う」ものですらないのです。


「ちゃんとやれ!だが安くしろ!」と日本の「神様」は要求します。これは明らかに「不当な奉仕」の要求です。適正な対価を支払わず、高度な奉仕だけを要求する、「不当サービス」が横行しているのです。


「不当サービス」は連鎖する

そしてこのような「不当サービス」は連鎖し、悪循環を生みます。

自らがこうした「不当サービス」を当然に求められていると、それを他のひとにも当然に求めるようになるからです。

僕自身、その罠に陥ってしまうことがあります。たとえば、以前某通信会社に入社したばかりの頃、研修として販売店の店頭やコールセンターで仕事をしていた時には、かなりの程度「不当サービス」に侵されていたと思います。

販売店の店頭やコールセンターでは、「神様」から過大な要求や小さなミスに対しハードな叱責が毎日のように浴びせられます。しかし、どんなに理不尽なクレームでも反論してはいけません。「顧客第一主義」というお題目のもと、「神様だから」「プロだから」ということで飲み込み、感情を押し殺しひたすらに謝罪するように指導されたりします。

そうするとどうなるか?というと、自分が要求された「神様」対応を今度は自分が「神様」として人に求めるようになり、他の店員や企業の対応に異常に厳しくなってしまうのです。これは虐待の連鎖にも似ており、麻痺してしまうというか、問題がよくわからなくなってしまうようなところがあります。「自分だって我慢しているのだから「プロ」はそれくらいやって当然だろ」と「正論」として考えてしまうようになるのです。「プロの矜持」という大義名分にすり替えられていますが、その心理状態を反省してみると、実は「おれも大変な想いで仕事してんだから、お前もそれを味わえ」というルサンチマンに他なりません。

とても皮肉なのは、現場で「謙虚さ」を学ぶために「神様」に対する「我慢」を教えられれば教えられるほど、新たに尊大な「神様」が再生産されてしまう、という点です。

日本では「我慢」が美徳のように思われがちですが、そもそもの語源である仏教において我慢は執着を生む慢心やエゴに他なりません。「我慢」はエゴイスティックな神を生んでしまうのです。


「不当サービス」は価値を下落させる

そしてさらに問題は、こういう「不当サービス」が社会全体の価値をさげていくことです。

コロナ禍もありデフレ傾向が出てきていますが、こうしたときこそ「不当サービス」への注意が必要です。

コロナ禍によるデフレの主因は「需要の縮小」にあります。需要が冷え込んだために需要と供給のバランスが崩れ、(GO TOもそれに一役買ってしまいましたが)値崩れを起こしたのです。

これが一時的なもので、需要が回復してくればデフレも緩和されるでしょう。しかしこの需要の縮小が、今回述べたような「不当サービス」につながると、さらにデフレが加速してしまうかもしれません。

デフレに影響する指標に「単位労働コスト」というのがあります。これは、名目雇用者報酬÷実質GDPで計算され、「労働にかかるお金」を「生産された価値」で割っているので、「一定の価値生産のためにかかる賃金コスト」を示しています。

「単位労働コスト」が上がると、同じ製品をつくるのに労働コストが多くかかることになるのでものの値段があがってインフレになり、「単位労働コスト」が下がれば安く製品をつくれるようにので価格が下がりデフレになる、とされます。

この計算式の分子分母をみると、賃金の水準と生産性によって「単位労働コスト」が変動することがわかります。賃金があがると分子が大きくなって「単位労働コスト」はあがり、生産性があがると分母が大きくなり小さくなります。

生産性が上がって相対的に「単位労働コスト」が下がった場合にはポジティブな変化ともいえますが、生産性が変わらないのに賃金が下がり「単位労働コスト」が下がる場合はただの賃金値下げでしかなく、賃金が減った結果、需要が更に減って実体経済が縮小し、デフレスパイラルへと陥りかねません。

安く(時には無料で)、釣り合わない仕事を強要する「不当サービス」とその連鎖は、生産性をあげずに「単位労働コスト」を下げ、日本全体の価値をさげることになるかもしれません。とりわけコロナ禍で需要がひえこんでいるから今だからこそ、無理に仕事を取ろうと「サービス」しがちになるので注意が必要です。


こうした悪循環を断ち切るためにも、仕事をする側としてもクライアントとしても「適正な対価」を支払うことを意識していくべきだと考えます。仕事をする時にも、安易に安売りしたり、無料にしたりせず、しっかり対価を主張しましょう。それは「がめつい」とかではなくて、「不当サービス」の悪循環を断ち切り、社会の価値を適正化するために必要なのです。

そしてなにより「神様」ぶって不当な要求をせず、きちんと対価を払い公正であるように注意したいものです。そしてコロナ禍でぴりぴりしがちないまだからこそ、自分のために「サービス」をしてくれる方たちへの感謝を忘れないようにしたいものです。

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