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安易に分けず、ちがいを増やし、相対化する 〜子育てで「バイアス」を再生産しないために心がけていること

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと子育てにおける「バイアス」について書きたいと思います。


バイアスは気をつけて是正しないと再生産される

男の子は青、女の子はピンク。

子育てをしているとこうしたステロタイプなバイアスはいたるところに潜んでいます。たとえば子供向けの文房具などの小物を買う時とかでも「男の子ですか?女の子ですか?」ときかれ、その回答によってちがう色を薦められたりします。

娘が小学生の頃、scratchでプログラミングしているというと「女の子なのにすごいですねー」とナチュラルに返ってきたものです。こうしたバイアスは親や大人にとってはほとんど自明の前提のように染み込んでしまっていて、それがバイアスだということすら気づけなかったり、むしろ「それが自然でしょ?」と正当化されたりしてしまいます。

もちろん、一般的なイメージ通りに青が好きな男の子がいていいし、ピンクが好きな女の子がいてもいい。問題は、「それが普通」という言説になり、当てはまらない少数のひとを抑圧してしまうこと。そしてその事によって偏見が無意識に再生産されていくことです。


たとえば「女性は起業に向いていない」という言説がまことしやかに語られたりします。しかしこれは本来、「自然」でも「普通」でもありません。現状の起業環境が男性に最適化しているために、女性の起業に対するアクセスが悪いだけなのです。経産省で行う研修用につくっている資料から少し抜粋します

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ジェンダーの話をすると、よく「能力は平等。女性をわざわざ優遇するのはおかしい」とか「逆差別だ」という声があがります。しかしそもそもひどく偏った「環境」を前提に「平等」を語るのは不公平です。

起業のバリアフリー化」といっているのですが、一部の人達にのみ最適化され、アクセスしづらい人がいる環境は改善可能ですし、より多くの人が活躍できたほうが社会の価値の総量があがります。それを「優遇」というのは変ですよね。

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こうした環境の不平等が認識されず、「女性は向いていない」というバイアス的言説になってしまうのですが、とくに自分が多数派や強者の側にいる時にはそれが「偏見」であると気づきづらいものです。「(昔からそうだったし)そういうもの」と現状を肯定し、そしてその無自覚な肯定によって偏見を再生産する。だからこそ多数派や強者ほど、価値観を再生産しないように意識する必要があるのです。


1)安易に分けない

まず、「男性が」「女性が」安易に「分けてしまうこと」には問題があります。それによって「遠いもの」になってしまうことがあるからです。

たとえば「理系」と「文系」という分類があります。これ、そもそもだいぶ微妙なわけ方なのですよね。僕は「建築学科」の時は工学部で理系でしたが、「美学芸術学科」は文学部の中にあって、修士論文でも建築論を書いたのですが、これは「文転」したことになるのですよね。建築に関する関心はあまり変わっていないのですが、古い分け方だとすごい方向転換、みたいになっちゃう。

先日、家族向けに1h×3回にわたって「微分・積分考えた人すごくない?」という「おうちゼミ」をしました。(余談ですがこの貼れるホワイトボードめちゃ便利です)

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数学の話から物理の話、そしてそもそも「次元」とか「分ける」とか「単位」とか概念の話に…。そしたらみんな「え…やばいね何それ考えた人…」ってなってました。

これ、ライプニッツっていう人が発明したのですが、この人は「文系」の人には哲学者として有名な人です。

ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

やべえな。

もちろんライプニッツが天才すぎるというのはあるのですが、でも微積分って単に数学的計算というのではなく、論理学とか「モナド」とかと発想が通じていると思うわけですよ!そういうつながりから知ると面白さ倍増なわけです!

細分化や分類は便利ですが、ときにホリスティックな面白さをなくしたり、敬遠させてしまいます。「数学の単元」とおもうと微積分ってつまんなそう…としか思わないですよね。ITというのもそうで。ライプニッツは機械式計算機つくってたという話もあるのですが、デジタルツールって理系とか文系とかぶっちゃけ関係なくないですか?っていう。

いまや、プログラミングやITのツールってえんぴつと一緒です。えんぴつは計算にも文章書くのにも絵を描くのにも使いますよね。えんぴつは女性にはあんまり向いていない、とかないわけです。

もちろん最初は一部の人に専門的に使われていてその頃には万人向けではなかったかもしれませんが、それはいつか特定のひとだけのものではなくなります。notionで文章書くのとかプログラミングで音楽つくるとか、とりあえず触って色々活用してみたらいいですよね。お茶だって昔は武士の嗜みでした。ファッションやメイクだってもうみんなのものです。



2)ちがいを増やす

「分けない」というのと矛盾するようですが、僕はダイバーシティのためには「ちがい」を増やすことが重要だと思っています。

それは「女と男は別物」と線を引くことでも、「みんなちがってみんないい」と安易にいうことでもありません。それぞれの属性の特徴や取り巻く環境について丁寧にわかり合おう、ということです。

「ちがい」を知らなければそのための適切なサポートができません。こちらの有名なイラストはそのことをとても良く表しています。「公平equity」とは等しいサポートではなく、それぞれの属性にあったサポートを提供することです。

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「男女平等」とはサポート自体を一律にすべきだと誤解されることがありますが、本来それぞれにとってのサポートはちがいます。

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以前書いたこちらのコラムから引用します。

ジェンダーの話をすると、「女も男も変わらないんだから、区別せず同じく扱うべきだ」という話が出ることがあります。そういう考え方は平等主義的で、ユニバーサルな価値観です(uni-verseというのは「一方向に向ける」という意味)。でもその実は、どこかで誰かが無理して合わせている、という状態になりがちです。
「ダイバーシティ」という言葉があります。多様性を受け入れる社会を目指す言葉ですが、実はさきほどの「平等」とは逆の言葉でもあります。di-verseとは「別々に向ける」という意味で、「みんな同じ」ではなく、「ちがい」を増やすことなのです。
ですから、女性も男性も同じ、ではなく、まずその「ちがい」を学ぶことが大事です。そして、ここが重要なのですが、問題は男女を2つに分けたところで終わり、「女性はこう」「男性はこう」と二分法や決めつけをしてしまうことです。
女性と男性の「ちがい」について知った上でそれぞれの女性の中の「その人自身」の個性を知ろうとする。それぞれの「ちがい」まで目を配ること。

「生理」のことについても、男性の僕はどうしても想像力が不足しがちです。「だらだらしてるなあ…」と思っても怠けているわけではなくPMSによる体調やメンタルの不調のせいかもしれませんし、気圧で偏頭痛がすごいのかもしれない。身体がちがうので男性の僕が100%わかることはできませんがだからといって「男にはわからない」と線を引くのも違います。

知ることでサポートできることもある。こういうところで困ってるのかもしれない、と想像することができる。よく考えたら男性の方が知識が浅いのですから、むしろ男性こそもっと学んだほうがいいですよね。なので家庭では性のことについてもなるべくオープンに話すようにしています。(なんでもかんでもオープンがいいというわけではないので個人的な話をするかは本人たち次第です。父親よりは母親のほうが相談しやすいこともありますし、ひとりだけで抱える状況にはならないように、チームとしてのサポートを考えています)


そして大事なのは、安易に「男女」で「くくっておわり」にせず、その先にさらにちがいを増やしていくこと。たとえば「女の幸せ」という言葉がありますが、同じ「女性」の中でもさらに無数の「ちがい」があります。生理一つとっても色々なタイプがありますし、恋愛対象や性自認も色々です。女性の幸せの形だって一つじゃありません。子供を持つかどうか、結婚するかどうか、働くかどうか。「女性の」という大きな分類を超えて、子供たちにはそれぞれの幸せのあり方を考えてほしい。

では、女性と男性の脳活動に違いはないのか。そういう意味ではないというのが著者の主張。脳の構造や配線に平均的な性差は存在する。しかし、個々人の脳を調べてもそうした性差が一貫して認められることはない。われわれの脳は、各種の特徴がモザイク状に組み合わさっており、存在するのは多様な個性であるというのだ。


3)いち意見として相対化する

親としてついやってしまいがちなのが、自分が育ってきた経験や価値観からつい騙ってしまうことです。たとえば結婚や子供のこと、仕事のこと、受験のこと。

これも青やピンクを薦めるのと同様、バイアスを再生産し、強化してしまう危険があります。じゃあできるだけ余計なことを言わないほうがいいか、というと僕はそれは違う考えを持っています。

なぜかというと、バイアスはそもそもゼロにはできないからです。ひとが何かを話す時、(それがいくら客観的にみえようとも)そこにはバイアスが含まれます。

ではどうしたらいいのか?

僕はむしろ、バイアスだと意識し、

「自分のときはこうだったし、こう思う。けど、それは全然すべてではないし、いち意見にすぎない」

と相対化して伝えることだと思っています。

青もピンクもバイアスになるから、何も言わず自分で選ばせる、というやり方もあると思います。しかし、バイアスにならないためには何も言わない、ということになったら、親と子供のコミュニケーションは減ってしまいます。それよりは、自分のバイアスを、それがバイアスであること込みで伝える、そもそもバイアスというものがあることを知ってもらう方が良いのではと思うのです。どうせバイアスにまみれた社会を生きていかなければいけないのですから。

たとえば僕にとっては「男は女性を助けるもの」とか「女性におごってもらうなんてかっこ悪い」という価値観を脱することはなかなかできません。それを隠すのではなく子供にも、自分はこう思う、というのは伝えます。でもそれは多分当時の教育のせいもあると思うし、価値観の一つでしかないことも伝える。

そもそもバイアスをゼロにできるというのは幻想にすぎません。自分にはバイアスがない、と思うことは危険ですらあると僕は思います。それよりは、「バイアスがあるよー、どんな見方もバイアスのひとつなんだよ―」という前提で色々な考えに触れてもらい、コミュニケーションを増やしながらバイアスを相対化して本人なりに考えたり選んだりする方がよいのではないかと思っています。


「強者」こそバイアスに敏感に

最後に、どれだけ気をつけていても、親と子の間には非対称性があります。子供の繊細さに対しては想像力が不足することもありますし、「いち意見」のつもりでいったことが子供からは「決めつけ」や「命令」に近い強いボールになってしまうこともあるでしょう。

すでに述べたように、社会というのは「強者」に最適化されているものです。そこではどちらかといえば、「弱者」である子供の声というのはかき消されがちです。(いまは少ないでしょうが、日本でもたった100年前は子供が親に意見することなどできませんでした)

バイアスは強者によって強化されます。最初に述べたように、強者にとっての当たり前が「普通」という言説になり、当てはまらない少数のひとを抑圧してしまう。そしてそれによって偏見がまた無意識に再生産されていく

そうならないためにも、親として子供に対し「普通」と思った時こそ、改めて自分のバイアスを疑ってみるように心がけています。



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