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カレーライスが嫌いだ!

カレーライスがどうしようもなく嫌いな人がいたとしよう。別にアレルギーとかの問題じゃなくて、過去にどんないきさつがあったが知らないがとにかくカレーライスが嫌いなのだ。

嫌いなものはしょうがない。と思うのだが、その人間はやがて自分の嫌いなカレーライスを「美味しい」と言ってしあわせそうに食べる人間が許せなくなってしまったとする。普通はそんな思考にならないが、そいつはそういう人間だったとする。

すると、自分が嫌いなものを絶賛されることがどうにも不快になりすぎて、「カレーライスには身体に悪い、太る、生活習慣病の元になる」などと言い出して、まずカレーライスの害悪を強調する。実際にそんなデータがあるのかどうはわからないし、エビデンスも出さない。まあ、実際食べ過ぎれば、カレーライスに限らずなんでも身体には悪いのだが、そういう屁理屈で攻めてくる。

カレーライスをこの世から根絶しようとするのだ。

とはいえ、どこかの変な人間がそんなことを顔を真っ赤にしてがなりたてたところで、誰も聞くはずもない。食べたい人はお構いなしにカレーライスを食う。すると、今度は、カレーライスを提供したり、食う人間を責め始める。

「人間に害悪な(というそいつの勝手な思い込みにすぎないのだが)カレーライスを提供したり食い続ける奴は、きっと人類全体に害悪をもたらそうとしている悪魔かもしれない。排除すべきだ」とエスカレートする。それどころか「私はカレーライスの匂いを嗅いだだけでも気分が悪くなる。そんな私に我慢を強要するのか?それは弱者いじめではないのか?」というわけのわからない理屈で被害者面をしようとする。場合によっては、カレーライスを食って食中毒になったなどという嘘を捏造してまで、世の中に「カレーライスは害悪」であることを流布しようとするかもしれない。そのために誰かを生贄にすることさえいとわない。

そんな人間が自分の周りにいたらどうですか?

そう…「やべえやつ」でしかないわけです。

しかし、「カレーライス」を他の単語に入れ替えれば、日常的に同様の行動をしている「やべえやつ」がたくさんいることに気付くだろう。


個人の好き嫌いは仕方がない。理由もなく嫌いなものもあるだろう。しかし、自分がとことん毛嫌いするものでも、一方でそれをとことん愛している人がいるという想像力が働かないのだ。もっといえば、そいつが嫌いかどうかはともかく、それを製造し、輸送し、販売し、調理し、提供することで生計を立てている者もいる。そうしたそれに関わっている大勢の人達の仕事を否定することになるどころか、見下し差別することになっていることにすら気づけない愚かで可哀想な人間なのだ。

多くの人が好きな「カレーライス」を例にして説明すると「そんなバカな考えの人いるわけない」と思ってしまうが、これが万人が好きなものではないものだと、案外容易に誰もがこの「カレーライス排斥者」と同じになってしまうリスクがある。排斥者そのものではなくても、「カレーライス」に該当するものが自分の興味関心領域でないものであれば、「まあ、なくなっても私は困らんしなあ」と消極的な同調者になってしまう危険性をはらんでいる。


ここで大事なのは、個人の好悪の感情を起点として、「私が不快だから抹殺」しようとする思考がいかに危険なものかを理解はした方がいいということだ。

しかし、嫌いな対象物や対象者を抹殺しようとする人間は別に一時的な感情に流されてやってくるわけではない。それならばまだ可愛いものだ。自分の感情を正当化するための道筋を考えて、それを納得させるための理屈やデータを用意して、時に法律を活用して周到にやってくる。法律がなければ、しれっと法律を作ることから始める場合もある。

そうやって興味がないからと放置しているといつのまにかもう「それってあなたの感想ですよね」と冷笑していられない状態になる。「感想じゃないよ。もう法律もある。従わなければお前を罰することができる」という段階にきて「あいつ、やべえ奴だ」と言っても遅い。その頃にはあなた自身が逆に「やべえ奴」側にされているのだ。


ドイツルター派牧師であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉だといわれているがある。

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。

自分の主義や考え方を主張するのは別にいい。反対な考えの人間の考えを批判することも勝手にすればいい。話し合っても相容れないことがわかったからもう交流しないという判断もいいだろう。しかし、意見を戦わせるべきはその考え方の部分だけであって、人間同士ではない。自分の意にそぐわない考えの人間だからといって、その人間を丸ごと消去しようとする行為はナチスがやったことと変わらない。そして、ナチスにそれを自由にやらせてしまったのは、人々の無関心なのである。


そんなみんなのカレーーライス(外食)の提供価格が2000年以来最高額にインフレしているらしいです。


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荒川和久/「結婚滅亡」著者

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。