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アートヒストリーが「ビジネスの内部」に取り込まれる経験ーリバティロンドンの試み。

企業の歴史や文化を見直す、ということが必要なこととして良く言われます。また、社会やビジネスにおけるアートの位置づけも昨今、トピックに挙がります。

名古屋にあるトヨタ産業技術記念館に行けば、トヨタのつくる対象が織物から自動車に変わったけれど、そこに脈々と流れる血は同じであることがわかります。あるいは横浜にあるS/PARKでは、資生堂の美意識の変遷が分かります(最近、資生堂自体、このテーマへの関心が低くなっている印象もありますが)。

事業活動において、殊に今までにないコンセプトを生み出すにあたり、審美性や歴史の捉え方は鍵であるとは、ぼく自身、30年以上前に英国のスポーツカーメーカーと働いた経験で実感しました。そこで、スケールアウトではなく、新しいコンセプトの誕生に関わりたいと思ったぼくは、そのエコシステムがあるヨーロッパを自分の活動拠点としたわけです。

そして、このおよそ30年間においても、ヨーロッパの企業の美意識やその変遷をビジネスの現場や展覧会などのイベントで数多く見てきました。それらと比べ、今春から今週まで2度に渡ってみたリバティ・ロンドンが企画した「FuturLiberty」というミラノで開催されている展覧会は出色です。

「リバティって、ウィリアム・モリスの発案した柄で商売しているのでしょう?」

まず、リバティ・ロンドンの説明をしましょう。というのも、リバティというと、上の見出しのようなコメントが出やすいからです。半分は正解で、半分は誤解ではないかと思います。

同社は、1875年、アーサー・ラセンビィ・リバティという創業者が開店しました。はじめは中国、インド、日本からの色彩豊かなシルクを扱います。1880年代になると、産業革命による質の低い大量生産品の流通に対抗した英国のアーツ・アンド・クラフツ運動で作られた、さまざまな装飾品を扱い、パリ、ニューヨーク、ロンドンにショールームを構え、リバティは独自スタイルの輸出に成功。

ウィリアム・モリスの1878年の作品。自然にある花などの植物が多く描かれている。

イタリアでアール・ヌーヴォーが「リバティ・スタイル」とまで呼ばれたのは、その影響の証です。ミラノの建物でも、下記のような外壁の装飾をよく見かけます。

リバティ様式の建物

いずれにせよ、1880年代から今日に至るまで、プリント生地を開発するリバティ・ファブリックスは、ロンドンの中心部にあるチューダー王朝をモチーフにした旗艦店での小売り、婦人服、紳士服、子供服、ホームウェアの小売業者、ブランド、デザイナーと協力した国際的な卸売ビジネスを二本柱としています。

リバティの店内は雰囲気がある

実は、未来派の影響をそうとうに取り入れていた

前述のように「リバティって、自然のモチーフを取り入れた柄でしょう?」との固定概念が強いです。それは半ば正しいのですが、実は、1900年代初頭にイタリアでおこった美術運動「未来派」の影響が強かったことが、この展覧会で説明されます。

未来派とは新しいテクノロジーによって変わりゆく社会を肯定的にとらえ、速度、ダイナミックな動き、猥雑さなどを表現していきます。1909年、詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティにより『未来派宣言』がなされ、美術、建築、演劇、音楽、デザインなど各方面から表現者から賛同を得ます。

ミラノの大聖堂広場に接する900美術館には、未来派の作品が多数常設展示されています。この美術館の一角で行われている特別展がFuturLibertyです。正確にいえば、FuturLibertyのパート1です。ここでは入口でウィリアム・モリスの作品をみたあと、未来派の絵画をいくつかの観点から鑑賞することになります。「光」「動き」など、それぞれの視点で作品が分類されているのです。

光が強調されている。

そして、上述したようなイタリアにおけるリバティ様式の普及についても知ることができます。あるいは、未来派がファシズムに近寄りながら、その確執からファシズム体制から離れ、自己崩壊していく流れも示されています。

このようにパート1において、モリスと未来派に関する基礎的な素養ができ、「前衛であるとは何か?」を考える契機がもてますが、リバティ・ロンドンとの関係はここでは十分に分かりません。場所を変えないといけません。そう、パート2を見て、リバティ・ロンドンの意図が分かる仕掛けになっています。

FuturLibertyのパート2は、ブランド街でもあるサンタンドレア通りにあるPalazzo Morando ・Costume Moda Immagineで開催されています。ここもまず、モリスやリバティ・ロンドンのコレクション展示からはじまります。

パート2では家具も展示されている。

パート1とパート2の繋ぎが確認できるようになっていますが、パート2の主役の一番目にくるのは、ジャコモ・バッラです。パート1でもバッラの絵画はたくさん目にしますが、ここにくると、彼のデザイナーとしての側面が紹介されるのです。

ジャコモ・バッラのデザイナーとしての作品。

それも上の写真にあるインテリアだけでなく、ファッションにおけるバッラの活躍についても知ることになります。下の写真です。いわゆる1920年代の「Jazzエイジ」の具現者としてのバッラの作品を目のあたりするのです。カラフルで軽みがあり、親近感のもてる騒がしさを感じます

1918-1933 のFuturist Outfit

未来派などいくつかの動きを編集したのがバーナード・ネヴィル

バーナード・ネヴィルというデザイナーが1965年から1971年の間、リバティに在籍します。セントマーティンズやRCAの教授として多くの人材を世に出し、またアートコレクターとしても知られた人です。ネヴィルはファッションをひとつの学問分野に押し上げた1人と見なされています。

ローマのカトリック派からきているのか、ユダヤ系なのか、子どもの頃のことは不明な点が多いようですが、この彼がリバティの一時代をつくったのは確かです。

彼は未来派だけでなく、20世紀初頭にパブロ・ピカソやジョルジョ・ブラックがはじめたキュビズム、1910-30年代に広まった幾何学的表現やカラフルな表現が多くみられるアールデコ、1910年以降、キュビズムと未来派の影響を受けた英国のヴォーティシズムといったところから刺激を受けていたのです。そして、リバティのデザインのいわば中興の祖です。

(因みに、ミュージシャンのデヴィッド・ボウイは、1972年、『ジギ―・スターダスト』をリリースしますが、この頃に使われた衣装の生地はリバティ・ロンドンのもので、「科学」「技術」「未来」といったキーワードでデヴィッド・ボウイとリバティ・ロンドンは繋がっていたと考えられます)

これからのリバティ・ロンドンの姿を探る

これらの一連の流れを解きほぐし、これからのリバティ・ロンドンのファブリックのこれからを提示するにリバティのデザインチームと仕事をしたのが、1931年生まれのイタリア人のフェデリコ・フォルケです。フランスの革命時、パリからナポリに逃げたファミリーの子孫で、幼少の頃から知的エリートのなかでもまれます。インテリアデザイナー、ファッションデザイナー、造園デザイナー、アートコレクターと多様な顔をもち、歴史をリアルに知る人を外部から迎えたのです。

1953年、すなわち22歳のとき、パリでクリストバル・バレンシアガにデザインの力を認められたのがオートクチュールでのキャリアのはじまりです。その後、世界中のVIPが彼の顧客になり、そのためにインテリアデザインや造園にも手を広げざるを得なくなったのです。

フォルケの1966年の作品

この上の作品を一目みて、なぜ、リバティ・ロンドンが今回のプロジェクトにフォルケをコラボレータ―にしたのか、ぼくは一瞬でひらめきました。ジャコモ・バッラの探っていた道の延長線上にフォルケがいた、そう思いました。ネヴィルが作った世界観があり、そこにはバッラがいた。その世界観を匂いも含めてすべて知っているフォルケがいた。

FTの以下の記事を読むと、次のような展開が記されています(要約です)。

2021年、リバティロンドンのデザインチームがフォルケのトスカーナの別荘を訪ねると、「世界が変わりつつあるので、私たちは新しい声を届けなければならない」とフォルケは語った。

彼はリバティロンドンのデザインチームに未来派による幾何学的な一連の作品を見せたのだ。フィリッポ・トマソ・マリネッティによって創設された未来派は、1909年の『フィガロ』紙の一面に掲げられた宣言の中で、過去の文化的束縛と縁を切り、今の時代にある熱狂的な活力を受け入れることを訴えた。

デザインチームがロンドンに戻り、更なるインスピレーションを得るために
リバティのアーカイブを探って彼らが発掘したものは、フォルケの指針とまったく一致するものだった。すなわち、リバティの名高い60年代のデザイン・ディレクター、バーナード・ネヴィルの華麗なテキスタイルである。

つまり、ミラノの展覧会はこのプロセスをうまく整理したものだったのです。未来派など前衛芸術に強いキュレーターのエスター・コーエンは、このプロジェクト全体に当初からアートアドバイザーとして入っていたようですが、ぼくがこの展覧会を出色と思った理由は、この展覧会が美術史の観点とビジネス的な観点、さらにいえばビジネスのビジョンの整合性がとても良いのでは?と気づいたからです。

FTの記事には、フォルケがパターンのなかに、「リズム」「弾み」「クレシェンド」を入れ込むように強調したとあります。子どものころにピアノを演奏していた経験があるから、このような言葉が出たのでしょうが、やや良く言えば「落ち着いた」とみられていたリバティのデザインには求められる要旨でしょう。

フォルケとデザインチームとの活動の様子。
実際に使われた素材。

リバティのマネージングディレクターが学芸員のように話す

実は、この展覧会、パート1も2も二回行きました。一回は1人で、もう一回は、リバティロンドンのデザインチームも含む世界各地のリバティ現地法人のリーダーたち、100人以上とのグループと一緒です。そして、グループのときは、マネージングディレクターのアンドレア・ペトキの説明を受けました。

彼はビジネス開発の責任者ですが、まるで学芸員のようにすらすらと解説していきます。MBAで勉強した人ですから、美術史を専攻した人ではありません。FTの記事の冒頭にありますが、ローマの宝石店の息子であるため、それなりに審美性を重視する育ちはしたようです。

解説の言葉が身についているのは、この展覧会が彼の企画だからです。およそ150年に及ぶ、リバティロンドンの歴史や美術の流れが自らの中で消化できているから、今回のようなプロジェクトの企画ができたのだと思われます。そして、彼自身が経営陣の1人として、これからのリバティのビジョンをつくる立場であるがゆえに、自分の言葉になっているのです。

彼は米系の企業など何社か渡り歩き、数年前からリバティのマネージングディレクターですが、なるべくしてなっている・・・と思いました。

メンフィスは未来派から学んだことが多い?

最後に。この展覧会、特にジャコモ・バッラの作品をみているうちに、1980年代のイタリアのポストモダンデザインの運動である、メンフィスのデザイナーたちは、未来派からそうとうに学んだのではないかと思いました。

ソットサスのデザイン作品(ミラノトリエンナーレ美術館開催された回顧展

それで、アンドレア・ペトキに「メンフィスは、どうなんだろう?」とWhatsappで聞いてみると、即、今回の展覧会のキュレーターであるエスター・コーエンに確認をとってくれました。

そしたら「未来派は20世紀のすべてのアーティストやデザイナーに影響を与えた」と彼女の返答を即、転送してきてくれました。テクノロジーが急伸した20世紀初頭のアートの動きとしての未来派を考えるなら、2023年、未来派をもっと研究してみないといけないなと再認識しました。

(7月4日追記)

ミラノ工科大学でアートヒストリーを教えている先生に、「メンフィスのデザイナーたちが未来派に学んだ、という理解は良いか?」と尋ねました。

「間違えてはいないが、彼らは未来派よりダダの影響を受けたと話す傾向にあった。未来派は1919年以後、ファシズムに接近したので、そのあたりを慎重に表現したと思う」とアドバイスくれました。

冒頭の写真©Ken Anzai




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