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現場に行かないとわからない事はたくさんある

鳥取で講演があり、以前のお盆の時の台風のこともあり、安全を期して前乗りして鳥取入りしたのですが、せっかく鳥取に来たのだからと、やってきました鳥取砂丘。

VIVAN風に写真を撮ってみました。歩いているのは僕です。

初めて鳥取砂丘に来た自分としては「おおっ!」と思って砂漠の景色を楽しんでいたのだが、どうやら現地の人にしてみれば「砂丘の緑化」が悩みの種なんだそうな。

確かに言われてみれば、全体が砂丘とうわけではなく、ところどころに緑色が見えている。

上の写真はたくさんのボランティアによる除草作業後であり、まだマシな方だそうで、下の写真は令和4年のものだそうだが、もはや砂丘ではなく草原に見える。

そんなことになっているとは全く知りませんでした。当然今までもニュースとかにはなっているのですが、やっぱりその現地に行かないとわからないというか気にしないということが多い。

砂漠の緑化はそれこそ中央アジアやアフリカの砂漠にとっては喜ばしいことなのかもしれないが、鳥取砂丘の場合は貴重な観光資源の景観に関することでもある。

なんてったって空港の名前が「鳥取砂丘コナン空港」というくらいですから。

現地に行かないと肌感覚としてわからないということは他にもある。

ご存じの通り、鳥取県は都道府県の中でもっても人口が少なく、令和4年時点で約54万人しかいません。東京でいうと、杉並区や板橋区、八王子市よりも少なく、丁度江東区と同じくらいです。

しかし、来てみて人口が少ないという割には住宅がたくさんあって(というより密集していて)、鳥取大学駅近くはアパートもたくさんあって、そんなに人口が少ないというようには見えなかったんですけどねえ。家はあっても人が住んでいないのかしら。

何より鳥取駅周辺をうろうろしていると、男女の中高生がやたらと多いことにびっくり。失礼ながら「高齢者しかいないんじゃないか」と思っていましたから。

講演場所は倉吉市というところでしたが、こっちは逆に小さなお子さんを連れた家族族連れが多い。子どもがのびのびとかつ大胆に遊べる大きな遊具なんかもある。こういうの東京圏ではめっきり見られなくなった(危険だからと撤去されたから)。

あと鳥取に来て痛感したのは、クルマがないと生活していけないんだなあってこと。東京などの大都市のように公共交通機関だけですべて事足りるものではない。そもそも電車もバスの本数が少ない。クルマがなくて生きていけないところの人達にとって、今のガソリン代は死活問題でもある。

数字としてわかっていても、現地に行かないと、肌で感じないと実感できないことは山ほどある。だから、なるべく僕は地方の講演は行くようにしています。現地に行って、そこにいる人たちと直に接続してみてわかることは大切な事。

鳥取の人口が減っているのは(鳥取に限らず日本中の地方都市はすべてそうだが)18歳以上の若者の県外流出によるものである。

東京と鳥取の年齢別人口分布を比較すると一目瞭然。

2020国勢調査より

東京と比べて極端に20-40代のいわゆる出産対象年齢の人口が低くなっていることがわかる。生まれてこなかったわけではなく流出していったからだ。子を産む世代がいなくなるのだからどんどん人口が減るのは当然である。

裏返せば、地方に残っている若者は地方で結婚して子どもを産み育てているわけで、何度もいうように第二次ベビーブーム期と「一人当たりの母親が産む子どもの数は変わっていない」のだが、いかんせん絶対数が減っているのだから出生数は増えない。小学生でもわかる計算だ。
少子化なのは女性、それも母親の絶対数の減少という「少母化」でしかないのである。

母親の絶対数が減っているのは、すでに「来なかった第三次ベビーブーム」に加え、未婚率が上昇しているからだ。東京など大都市の未婚率は高いが、かといって地方も30年前から比べれば全体的に未婚化している。

既に30年前から始まっている若い層の絶対人口の減少とその未婚化によって、いくら出産している母親が1980年代同様に産んでいたとしても、追いつかないのである。

未婚化というのは同時に無子化であるからだ。20年後は男の5割は生涯無子になるから。

いい加減できもしない少子化対策を単に政党の選挙対策として使い、無駄に公金を使うことなどやめて、もはや少子化であり、出生数は増えない=今後生産力を担う若者の数が減っていくという前提の上で社会をどう成り立たせいくかという方向を考えないといけないのである。

若者が流出しているから流出しないようにしようと個々の自治体が考えるのは否定しないが、どこかから若者をもってきても日本全体としてシェアの奪い合いでしかなく、意味はない。おらが町だけうまくいけばいいという発想では何も変わらない。考えるべきは全体の底上げである。

そういうお話を講演ではさせていただきました。

写真は、丁度「会社唯一依存症」に無意識に陥っているおじさんは定年退職後に途方にくれて抜け殻になるよって話をしているところです。いい会社に入ってそこそこ出世したおじさんにありがちな症状です。
人間はすることがないと腐っていく。仕事がないことが地獄になります。むしろそういう人こそ働き続ける選択をした方が本人の健康にとっても得です。現役と違う仕事であっても。

若者の絶対数が減っている以上、中年や高年の人たちが頑張らないといけない時代になっています。特に65歳とか高齢者とか言っている場合じゃないのです。支えられる側などと思ってもらっては困るのです。働ける人は働き続けてもらわないと困るし、貯金なんかしないで消費してくれないと困るのです。

高齢者が多い歪な人口ピラミッドが補正されるまでは、今後多死化が加速したとしても最低でも80年かかる。今生まれた赤ん坊が死ぬ時になってやっと是正されるわけです。これからの80年が実は一番大変な時期でもあるのです。それを一人一人が自覚していかないといけないでしょう。どうせ政治家も官僚もそんな大事な事は絶対に言わないまま、先に死んでいくので。

敬老の日は長生きを言祝ぐ日ではなく、長く働き続け、消費し続け、経済を回してくれた時間の多かった高齢者を言祝ぐものになっていくのかもしれません。※この「働く」は別に賃金を稼ぐという狭い意味だけではない。それぞれの働き方があっていい。

最後に、鳥取と島根に来て思ったのは、とにかくスナックが多いことである。倉吉などは駅前にほとんど外食屋がないのにスナックだけは充実している。それだけ需要があるってこと。高齢男性の重要な出場所のひとつなんだろう。高齢者の高齢者による高齢者のための循環消費経済の活性化も必要だ。

写真は倉吉ではなく出雲市。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。