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暴力の被害を止めるために、当人ではない外部から、外部だからこそできること

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。

メタバース連載の途中ですが、ちょっと間に別の話をはさみます。


ドキュメンタリー演劇『占領の囚人たち』

土曜日に『銀座ソーシャル映画祭』というイベントにお誘いいただいて、いってきました。

銀座ソーシャル映画祭は、中越パルプ工業さんが社内のソーシャル意識を高めようと始め、想像以上に反響があったことから一般にも公開するようになったイベントだそうで、今回がなんと183回目(!)なんだそうです。

今回は、パレスチナに関するドキュメンタリー演劇の記録映画『占領の囚人たち』の上映があり、鑑賞後には、作品に翻訳・ドラマトゥルクで関わった渡辺真帆さんと映画探検家のアーヤ藍さんとのトークセッション。演劇とトークイベントを通じて、パレスチナのこれまでと現状を知ることができ、色々と考えさせられました。

日本ではあまり報道されませんが、パレスチナ、とくにガザ地区では今も一般市民も含めたパレスチナ人への攻撃が続き、すでに3万人近い死者が出ています。

こうした現状について、僕たちはなにかアクションをできるか、といっても、よその国の複雑な事情に口を挟むのに躊躇してしまったり、自分ごと化しきれずに傍観したりするところがある気がします。

しかし、やはり理不尽な暴力は許されないことであり止めないといけないですし、それには当事者ではない外部からの対応が重要であり、非当事者だからこそできることがあるんじゃないか、と改めて思いました。


パレスチナでの「囚人」の過酷な状況

一本目に上映された演劇作品、「Prisoners of the Occupation」は、実際の囚人への取材を基につくられたドキュメンタリー演劇で、まさに当事者であり元囚人のサバイバーであるパレスチナ人のカーメル・バーシャーさんも出演され、イスラエル占領下でパレスチナ人がどのような扱いを受けているか、そして普通の一般人がある日突然テロの容疑をかけられ、監獄で拷問を受ける恐ろしさを描いた作品でした。

イスラエルの占領下では、驚くことにパレスチナ人男性の4人に1人が逮捕され囚人を経験するといいます。4人に1人です。

これらの逮捕はしばしば根拠のない疑いから行われますが、むき出しのコンクリートの牢獄の非衛生的な環境に、数十年にわたって監獄生活を強いられることもあり、まったく恣意的に人一人の人生がズタボロにされてしまっています。

「占領者」であるイスラエルの警察や司法が中立的な取り調べや裁判してくれることは期待できず、看守の気分次第で捕まったり罰せられたりする。(このあたりはまさにナチスの状況に似ていると感じます)

そこで行われる拷問は国際法違反の非人道的な暴力で、仮に解放されたとしても身体的、精神的に後遺症が残る方が多いといいます。そんな監獄の中で抗議を示すために、囚人たちはハンガー・ストライキをするしか手段がありません。なかには身体をボロボロにしながら200日以上のハンストをした方もいたそうで、その人は一度釈放されたらしいのですが、また収監され現在は監獄にいるとのこと。つらい…


演劇に描かれていた状況もさることながら、なんといってもショックだったのは自分が非人道的な暴力が状態化しているこうした現状についてほとんど知らなかった、ということでした。どれほど残虐なことが行われていても、国が報道をコントロールしてしまえば外からはわかりません。もちろん、インターネット時代なので、以前に比べれば情報は流通するようにはなっているはずです。日本で今、こんな不当な逮捕や拷問が行われたら即問題になるでしょう。

しかしパレスチナでもし、囚人が釈放後にそうした実情を個人的に告発したなら、すぐに逮捕され、ますます厳しい拷問を受けることになるでしょう。そして暴力の被害はどんどん隠蔽されていくわけです。こうしたことが50年以上にわたって続いている。21世紀になっても、強者からの暴力は簡単に見えなくされてしまっている


当事者の声が社会から切り離され、隠蔽され、かき消される

二本目の演劇、『I, Dareen T. in Tokyo』は、パレスチナ人の詩人・ダーリーン・タートゥールさんの体験に基づいています。彼女は、Facebookでとある動画をシェアしたことというだけで逮捕され、現在も収監されているそう。

この演劇を制作したのは、エイナット・ヴァイツマンさん。重要なポイントですが、エイナットさんは(パレスチナ人ではなく)イスラエル人の演劇家です。

ロシアとウクライナの問題もそうですが、紛争があるとしばしば民族単位での対立に単純化されてしまいます。しかし、イスラエルの中にもパレスチナに対する暴力に反対する人はいるのです。(宗教対立とも言われがちですがむしろイスラエルの「ジェノサイド」に反対するユダヤ人も沢山います)

想像に難くありませんが、こうした声をイスラエルの中でイスラエル人が挙げることは非常に勇気がいることです。実際、イスラエル人なのにイスラエルのパレスチナに対する暴力を批判するエイナットさんの活動に対して、イスラエル国内から”非国民のパヨク”として叩く人が後を絶たないといいます。

人間の集団バイアスには、外集団を十把一絡げに「敵」とみなす外集団バイアスがあります。そしてまた一方で内集団の中に異分子を許さない内集団バイアスの「黒い羊効果」もあります。


エイナットさんのケースはまさにそれですが、異論が抹殺され、全ての人が賛成しか(少なくともオフィシャルには)言えなくなり、どんどん国内ではブレーキをかけられなくなっていく。僕はこれは他人事では全く無いと思いました。日本でも、他国に対し暴力を働いたり戦争に突入していこうとした時、人道観点から自国を批判したら「愛国者」から同じように石が飛んできて、押しつぶされてしまうかもしれません。


また、上映後のトークでアーヤさんがおっしゃっていたことも印象的でした。アーヤさんは(イスラエルとは別の)友人が住む地域が紛争地帯になったことがあるらしく、友人がSNSなどで現地の状況を伝える頻度は、紛争が激化するにつれて減っていったといいます。死が隣合わせにある厳しい状況で、インフラも壊滅し、発信ができなくなったのかもしれませんし、検閲や逮捕によって言論封殺されたのかもしれません。

「現地からの発信は過酷な環境下では大変なこと。少なくとも安全な場所にいる私たちがもっと発信をしていいのではないでしょうか」とアーヤさんがっしゃっていましたが、その通りだなと思いました。


いじめや虐待、性暴力とおなじ構造

実際、国同士の紛争だけに限らず、暴力が隠蔽されてしまう構造は身近なところでも繰り返されています

例えばいじめや虐待の問題についても、そこに圧倒的な力の非対称性があり暴力が振るわれていると、被害者自身だけでは解決が難しい場合が多いでしょう。そしてそうした状況は、強者によって隠蔽され、社会から隔絶されがちです(「お前、誰かにしゃべったらどうなるかわかってんだろうな?」)。

周囲の人々、クラスメイトや教師なども、なんとなくそういった状況を知りつつ、見て見ぬふりをすることがあります。これにはいろいろな理由があるでしょう。

当事者間の事情がわからないのに口を出すべきではない、という考えもあるでしょうし、自分が巻き込まれることを恐れたり、単に面倒だから、ということもあるでしょう。もしかすると、パレスチナ問題に関しても今の日本の多くがそんな感覚かもしれません。

しかし、このような態度は、被害者を一層孤立させてしまいます。そして被害者は徐々に出口のない状況に追い込まれ、最終的に暴力に訴えるか自死を選ぶなどの痛ましい選択をするしかなくなるかもしれません。

そうした悲劇が起こると周りの人は、そんなになる前に相談してほしかった、と後で言ったり、当事者やその近くの人達を批判したりします。しかしその批判の矛先には自分は含まれず、面倒事に巻き込まれずに終わってほっとしていたりするのです。


周りは当てにならないからと、被害者本人が勇気をもって声を上げても、聞いてもらえるとは限りません。立場の強い加害者の言い分が勝ち、被害者にも問題があるんじゃない?と言われ、チクったと詰められ、さらに暴力を振るわれる。そして…やがて声も発せられなくなる。

こうしたことはみなさんの近くでも、そしてこれまで何度も繰り返されていることではないでしょうか?

被害者と加害者の関係は外からみているだけだとわからないから、もしそんなに苦しんでいるならちゃんと声をあげてほしい。いじめや虐待や、あるいは性加害・痴漢でも、そんな風に言われることがあります。

しかし、上記のように加害者との圧倒的な力の非対称性の中で、被害者の声は構造的に、かつ容易にmuteされてしまう。そして、そんな中で被害者だけが疲弊し、絶望していくのです。


止めるために、みんなの声がけが必要。ただし個人攻撃ではなく、行為を止めよう

日本では少し遠い問題だと思われがちなパレスチナのことを身近に考えるため、いじめや虐待の構造に例えてみます。(本当はこうした例えは危険で、パレスチナで起きていることはいじめや虐待とは例えようもなく遥かに凄まじいものなのですが)

暴力があり、それが加害者によって正当化されたり隠蔽されたりしている時、そこに立ち会った周りの人には何ができるでしょうか。

根本的な解決はなかなか簡単ではないかもしれませんが、一つできることは見て見ぬふりをせず、「あれ?大丈夫?」と声をかけることかもしれません。周囲がそうした声を挙げることで初めて実態が明らかになったり、加害を止める抑止力になるかもしれません。

ガザの件については南アフリカが国際司法裁判所に提訴しました。なんで関係ない国が訴えるの?と思った方もいるでしょうか。しかし先述したように、当人だけではもはや声を挙げたり解決ができないからこそ、当人ではない外から声を挙げたということなのです。アパルトヘイトの悲惨さを知る国は、見て見ぬふりはできなかった。

周りがみんな無関心ではなく、見過ごしていないぞ、見ているぞ、とまず示すこと。いじめや虐待は許さないぞ、みんなで声をかけていくこと。

いじめや虐待問題でもそうですが、一人が指摘するだけだとうやむやにされたり黙殺されたり、あるいは逆恨みされたり、加害者を刺激して抑止になるどころかかえって暴力を強めてしまうこともあります。なので、ひとりでも多くの人で一緒になった声をかけていく。みんなの声を合わせて環境的な解決が必要なのです。


ただし、みんなで声を挙げよう、という時に一つだけ注意が必要だと思っています。「みんなで」は、しばしば「正義」を傘に着た袋だたきや私刑になりかねません。「みんなの声」は多数性の力をもちますが、だからこそ、多数性の暴力にならないように気をつけ、個別の誰かを攻撃するのではなくあくまで行動に対して声を挙げることが大事だと思います。「◯◯(固有名詞)が悪い」というよりは「こういう行動はいけない」というように、みんなで声をかけあって暴力を無くしていく


非対称な力関係による暴力は、容易に隠蔽され、被害者には声を挙げることすら難しくなります。そしていじめや虐待もそうですが、加害側がエスカレートして自分で自分を止めることができなくなっていることすらあります。

被害者、加害者の当事者だけでは解決が難しいからこそ、周りにいる僕たちが、当事者ではない人が外側からちゃんと暴力を見過ごさず、声を挙げていく必要があるのではないか。先日のイベントでそんな風に改めて思ったので、まずはこの記事を書くことにしました。

読んだみなさんにとって、これがパレスチナで今も続く暴力について知るきっかけとなれば幸いです。ご興味を持っていただいた方は、『占領の囚人たち』は下記立教大学と長野の上田映劇での上映会もあるそうなので、こちらもチェックしていただけたらと思います。

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