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「悲観論は無意味で有害だ」と言った方が良いのか?

楽観的なことを言っているとアホかと思われ、悲観的なことを言っていると賢いと思われる・・・というのもかなりステレオタイプな理解です。

ハンス・ロリングとオーラ・ロスリングの『ファクトフルネス』が大ヒットしたのは、データをみると「世界って結構イケている方に向かっている」と実感した人が多いからでしょう。

楽観的になれるのは気持ちのもちようではなく、現実把握力によるのだ、というわけです。以下の記事もその線で書かれています。

2023年だけみても乳児の死亡率が過去最低を記録し、アルツハイマー病治療薬の開発で画期的な成果が出た。安価で効果的なマラリアワクチンが承認された。

悲観論を唱えると賢くなった気がするかもしれないが、その逆だということが調査でわかっている。英調査会社イプソスモリが17年に28カ国で実施した調査によると、人類が遂げた様々な進歩について最も知識が少ない人が将来を最も悲観していた

現実には1日当たり約10万人が極貧状態から脱しているにもかかわらず「極貧人口が増えている」と誤解している人は世界で52%にのぼった。比較的貧しい国で暮らす人ほど、現状を正確に把握し将来を楽観視していた。「世界はより良い方向に向かっている」との回答は中国で41%に達した一方で、英国では4%、米国では6%にとどまったのだ。

最も知識が少ない人が将来を最も悲観していた。比較的に貧しい国に暮らす人は現状に楽観視できるのは、貧しい現状がより良い方向に向かう兆候を感じるからです。それらの実態をよく知らない経済的に成熟した国の住む人たちは、自らの国の下り坂と貧しい国の上昇の遅さばかりが気になるのでしょう。

「世界はより良い方向に向かっている」と中国では41%の人が回答し、英米では4%から6%とのこと。中国が「比較的に貧しい国」とのカテゴリーでおさえられているのか、それとも情報のコントロールの影響を受けているのか、ぼくには判断がつきかねます。それにしても数字に乖離があり過ぎますね。

ところで、悲観論の効用って何でしょう?

「悲観論は行動を促す呼びかけであり、危機意識を喚起するための一つの方法だと考えられている。世界が滅亡すると言えば、人々は行動に駆り立てられ、路上で抗議デモを行い、適切な投票判断を下すだろうと」。ベルギーにあるゲント大学の哲学者マルテン・ブードリー氏はこう説明した。「だが、終末論を強く唱えれば唱えるほど生き残りのチャンスが少ないという印象を与え、なすすべがないと思わせてしまう」

極端な悲観論者はおおかみ少年の問題を生む。悲観的な警告が大げさだったと判明すれば、信頼できるはずの情報源への不信感が高まるおそれがある。

悲観論はなんらかの行動に駆り立てる。政府があてにできないと分かったとき、自分たちでサバイバルのために動くしかない、ということですね。こうしたパターンが悪いわけではないですが、極端なケースになると、社会そのものが崩壊の憂き目にあう、または人生を自ら断つということにもなりかねない。

ここです。

他方、楽観論もやはり同様に行動を駆り立て、それが極端にいけば、混沌とした状況をつくる。期待外れのことばかりが続けば、やる気を失います。

人は最初から悲観的であったのではなく、楽観的なことに可能性を見いだせなくなったとき、悲観的な方向に転じるのではないかとも思います。

「希望が人を殺す」とはよく言うが、本当に致命的なのは希望の欠如だ。各種研究では、全ての死因で悲観的な人の方が死亡率が高いことがわかっている。さらに恐ろしいのは、米ベンチャー投資家マーク・アンドリーセン氏の「テクノオプチミスト(技術楽観主義者)宣言」にみられるような、何もかもうまくいくという無謀な楽観主義の幻想だろう。

世の中、多くはなかなか上手くいかない。悲観的になってしまうのはとても自然なのです。

そのなかでどう希望を見いだすか?が知性の働きなのでしょう。現実をより正しく掴み、そのなかで突破口を見つけ出すとき、希望は輝いた存在になるのです。

・・・ここまで書いてきて、ふと思うことがあります。

2014年、イタリアの高級ファッション企業のブルネロ・クチネリの創立者にインタビューしたとき、彼はぼくに本をプレゼントしてくれました。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』を英伊の両方の版をくれました。「現状、悲観的な話が多いが、データからすれば、人類における無駄な死は減っている」と言いながら。つまり、前述の現状把握力が鍵であるのを物語っています。

それから何度も彼と話し、講演も何度も聞いてきました。彼の言葉は明るく、将来への期待があります。貧しい農民の息子がファッション界の重要人物になったのですから、あらゆる困難な壁は越えられると思える確信が強いのは想像するまでもないです。

ここで想起したのは、2022年、彼がローマ大学で名誉博士号を授与されたときのスピーチです。そのときのことは、以下に書きました。

彼は次のように若い学生たちを鼓舞したのです。

おどろおどろしい恐怖に耳を傾ける暇があれば、もっと希望がもてる話を聞け、と鼓舞するのです。

ほっぽっておけば、悲観的な話の渦に巻き込まれる。だから、楽観的になるには意図的に環境をつくらないといけないと言っているのです。知性第一主義にはいろいろと無理がありますが、生きるための知恵として知性の活用は大いに考えたらいいよ、ということです。生成AIと人の知性を対抗的に捉える論も多いですが、知性は希望をもつためのものと考えたらいかがでしょう。

冒頭の写真は先月ミラノで行われたブルネロ・クチネリのプレゼンテーションの様子です。

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